日本の中心になった理由2

 九州よりも500年も遅れた近畿の鉄器伝来ですが、大規模農業を始める上で、支障はありませんでした。地形・地質の点で、有利だったからです。

 近畿には、奈良湖・河内湖という巨大な淡水湖がありました。これらの水抜きをして、水田稲作に最適な土地を得たのです。広大な耕作地を持つということは、現代で言えば、『強固な財政基盤を持つ』という事です。これにより、古墳時代という黄金期を迎え、日本の中心となりました。ただし、邪馬台国時代のすぐ後の事です。

 邪馬台国の場所探しをするには、この近畿地方の淡水湖の例が、非常に良いヒントになります。

 

  ・ 北部九州の農耕地が開ける様子

  ・ 近畿地方の農耕地が開ける様子

 

地図で示しながら、後進国・近畿が広大な農地を手に入れた様子を示して行きます。

弥生九州
弥生時代末期の北部九州:農地は点在していて、小国林立

 上の地図は、1800年前頃の北部九州です。この地域の穀倉地帯は、広大な筑紫平野です。弥生時代末期には、この半分はまだ海の底でした。陸地部分は、沿岸部は湿地帯で、これを農耕地帯へと干拓しました。さらに上流域は、密林地帯という構造になっています。これは筑紫平野に限らず、河川によってできた沖積の平野に見られる一般的な構造です。筑紫平野の場合は、縄文海進時の堆積物の影響で、平坦で柔らかい地層の為、川の蛇行により三日月湖ができます。密林地帯の農耕地としては、この三日月湖跡が点在していたようです。また、筑後川上流の日田盆地は、淡水湖跡の平地なので、ここもある程度の規模の農耕地でした。いずれにしても、広大な面積の割には農耕地はわずかでした。密林地帯は、伐採・開墾すれば農耕地は増えるのですが、斧や鍬などの鉄器が必要です。北部九州では、鉄器が早くから伝来していたとはいえ、そのほとんどは武器であり、開墾用・農耕用の鉄器はわずかでした。仮にたくさんあったとしても、弥生時代にこの広大な筑紫平野の密林地帯を開墾するのは、容易ではなかったでしょう。このように、河川による沖積平野の場合、小さな国がたくさん出来ますが、一極集中型の大国は生まれにくいのです。

近畿農地
古墳時代の近畿地方:淡水湖の水を抜き、広大な農耕地を手に入れた。

 一方の近畿地方です。これは、古墳時代の奈良盆地南部の様子です。奈良湖という巨大な淡水湖があり、纏向遺跡は湖岸にありました。また、唐古・鍵遺跡は湖底にありました。これは、奈良湖の水位の上下が繰り返された為です。古墳時代から飛鳥時代にかけて、奈良湖の水が引き、巨大な沖積平野となりました。北部九州のような密林地帯は無く、鉄器を使って開墾する必要がありませんでした。また、同じ時期に奈良湖と同じ規模の河内湖があり、広大な農耕地が開けました。巨大な農耕地と共に、一極集中型の巨大な古代国家が成立したのです。

 このように近畿では、農地を開墾するための 『鉄器の必要性がなかった』のです。

鉄器後進国の近畿が、鉄器先進国の北部九州に先駆けて、大規模農業に成功し、古墳時代という黄金期を迎えて日本の中心となって行きました。 これは、弥生時代末期の邪馬台国の場所を探す為の、一つのヒントになるでしょう。