河内平野 円筒土器に見る瀬戸内地域との繋がり

 こんにちは、八俣遠呂智です。

近畿シリーズの14回目。近畿地方の弥生時代はつまらないです。弥生遺跡はあっても出土品が陳腐だからです。木製品、石製品、土器類などの生活用具はあっても、鉄製品や青銅鏡、翡翠勾玉や碧玉管玉などの宝石類といった威信財の出土がほとんど無いのです。これは、瀬戸内海地域で感じていた状況と酷似しています。近畿地方が日の目を見るのは古墳時代からで、それ以前は、とても遅れた地域だったのは間違いありません。

 近畿地方の弥生時代は、河内平野が中心地でした。奈良盆地ではありません。それは、河内平野の方が一足先に天然の水田適地になったからです。それぞれの地には、河内湖と奈良湖という巨大淡水湖が存在していましたが、河内湖の方が少し早く湖水が引き始めたので、水田稲作による農業生産が奈良盆地を上回っていた事によります。纏向遺跡という奈良盆地の頓挫した計画都市

に惑わされてはいけません。

 前回の動画では、庄内式土器という弥生時代末期の最先端の土器を紹介しました。この土器は、河内平野から出土しているだけでなく、胎土の産地もこの地域である事も分かっています。

 水田適地の広がりや、庄内式土器の誕生という視点から、近畿地方の弥生文化は河内平野を中心に発展していきました。そして奈良盆地に影響を与えながら、5世紀の古墳時代中期頃まで繁栄が続いていたのです。百舌鳥古墳群に見られる巨大古墳群は、河内平野が最後に輝きを見せた時代だと言えます。

 なお、近畿地方の弥生時代を研究する古代史研究家の中には、いまだに「銅鐸文化圏である」という説を唱える者もいます。しかし銅鐸は、土器や石器と同じレベルの実用品であり、威信財ではない事が証明されていますので、ここでは取り上げません。

 ここで河内平野における主な弥生遺跡を紹介しておきます。

西ノ辻遺跡、亀井遺跡、加美遺跡、鬼虎川遺跡などがあります。

 これらは、弥生集落遺跡があったとうだけで、出土品に個性がありません。強いて挙げるならば、加美遺跡や亀井遺跡の方形周溝墓や墳丘墓。国内最古のてんびん用の分銅とみられる石製品。鬼虎川遺跡の、銅鐸、銅剣などの石製鋳型。

といった程度です。この他にも、水田適地だった事を証明する弥生時代の水田遺構は、いくつか見つかっています。

 河内平野には、残念ながら奈良盆地にある纏向遺跡ほどの大型の拠点集落はありません。それが邪馬台国論争にほとんど登場しない要因になっています。また、出土品の内容も土器類が主体で、特筆すべきものはありません。しかしながら、纏向遺跡をはじめとする奈良盆地の弥生遺跡からの出土品も同じように土器類が主体ですので、河内平野が特に劣っていたわけではありません。どちらも鉄器や宝石などの威信財の出土が少なく、とても低いレベルで同じ傾向があるという事です。

言葉は悪いですが、「目糞、鼻糞」のレベルだという事です。

 纏向遺跡を筆頭とする奈良盆地の弥生遺跡から出土する土器類には、外来土器と呼ばれる周辺諸国からのものが多いとの統計があります。15%は奈良盆地以外からの土器であるのは有名ですね?

 ただしこれは、纏向遺跡に限った事ではなく、河内平野から出土する土器類にも同じように見られる傾向です。具体的な統計は取られていませんが、私が前述の4遺跡から発見された土器類を調べたところ、やはり15%程度は他の地域から持ち込まれたもののようです。

 河内平野の外来土器の特徴は、吉備の国から持ち込まれたものが多い傾向があります。いわゆる筒形特殊器台と呼ばれるものです。全体の15%が外来土器とした場合、その半分の7.5%が吉備系土器と見られます。これは奈良盆地とは全く異なった傾向があります。纏向遺跡の外来土器は15%で、その半数は東海系の土器です。残りの部分で河内系、吉備系、山陰系、北陸系が分け合う形になっています。すると、吉備系の土器はせいぜい1%程度しかない、という事になります。纏向遺跡の中にある箸墓古墳はこの吉備系土器からの年代曲解が行われていますが、全体からみればほんの僅かしかありません。

 こういった外来土器の傾向だけから文化圏を定義するのは早計かも知れませんが、河内平野は瀬戸内文化の影響を強く受けていると考えられます。吉備の国に見られる筒形の特殊器台の出土が多いのが一つの要因ですが、もう一つには、墳丘墓の副葬品が陳腐な点です。

 吉備の国の楯築遺跡にしても、豊富な特殊器台の出土はあるものの、王族の存在を窺わせる鉄剣や宝石類の副葬品はほとんどありません。特殊な円筒形の土器に目を奪われがちですが、そのほかの出土品にはあまり価値のあるものはないのです。これと全く同じ傾向が、河内平野の弥生遺跡にも見られています。鉄剣や宝石類はほとんどありません。

 また、河内平野を中心とする畿内では、銅鐸や銅剣などの青銅器類の出土が多いのですが、この点でも瀬戸内海地域との共通点が見られます。讃岐の国からの銅鐸出土が多いのは有名ですね?

 地域的には、吉備の国(現在の岡山県)あたりから西の地域の瀬戸内文化が、河内平野の方へ集積して行ったと考えられます。

 ただし繰り返しになりますが、威信財という強力な王族の存在を匂わせる遺品が無いのが難点です。これは、瀬戸内地域の豪族が近畿地方を征服したのではなく、瀬戸内地域にいた一般庶民が個々の判断で畿内へやってきた姿が浮かび上がります。

 弥生時代の状況は、土器類その他の出土品の状況から、近畿・瀬戸内の広大な文化圏が存在していたのでしょう。その文化圏は先進的なものではなく、日本海沿岸地域から比べれば遥かに劣っていますので、後進地域と言えるものでした。

 なお、奈良盆地は瀬戸内地域よりも、東海地域からの影響を受けています。こちらはさらに酷く、弥生墳丘墓自体が存在しません。従いまして、副葬品の有無以前の問題ですので、強力な王族の匂いすらも感じられない寂れた文化圏と言えます。生駒山地で隔てられただけの近接する二つの地域ですが、弥生時代には異なった文化が醸成されていた可能性はありますが、文化圏というよりも「僻地」とも言える場所です。

 また、奈良盆地でわずかしか見つかっていない吉備系の特殊器台が箸墓古墳で発見されているというのは、河内平野の勢力が主体となって、纏向遺跡という計画都市を建設した、その首長が箸墓の被葬者である、という推測もなされます。

 一方で、河内平野の最先端の土器とされる庄内式土器は、北陸系や山陰系の影響を強く受けています。いずれにしても、弥生時代の遺物から見えてくる近畿地方の姿は、先進的な周辺諸国からの影響に依存した、受け身の文化だったように思えます。

 ところで、河内平野が起源とされる庄内式土器ですが、出土品鑑定の中に、北陸系や山陰系の土器が混ざっている可能性は大きいですね。

 この辺は、土器鑑定の専門家を疑う事になってしまいますので、あまり深くは追及できません。考古学の分野は、グレーな要素が多いので、土器の胎土分析には今後、科学的な手法による解析が進むといいですね? 蛍光X線分析や、誘導結合プラズマ質量分析という最先端技術はすでに確立されていますので、後はお金の問題になってくるのでしょう。

 この辺の事情は以前の動画、「弥生土器の胎土分析 お金さえあれば・・・」にて述べていますのご参照下さい。

 いかがでしたか?

河内平野から出土する土器類は、瀬戸内地域や日本海地域からの影響が強いですね。弥生時代の近畿地方は、自ら文化を発信する場所ではなかったので、正直つまらないです。弥生遺跡はあっても内容が陳腐なので、土器の考察しかする事がありません。それでも、将来的に土器の胎土分析に科学的なメスが入ると、面白くなりそうですが?

 残念ながら考古学は、邪馬台国論争のような突飛な話題性がない限りビジネスにはならない分野ですので、今後も科学分析は進まないでしょう。