紀年銘鏡による邪馬台国時代への曲解。銅鏡と鉄剣

 こんにちは、八俣遠呂智です。

近畿シリーズの16回目。弥生時代の近畿地方の中心地は河内平野でしたが、その北部地域にも多くの弥生遺跡が見つかっています。現在の淀川下流域にあたる場所です。邪馬台国時代の標式土器である庄内式土器が見つかったのもこの地域です。奈良盆地などと同じように、弥生遺跡に見るべきものはありませんが、近畿地方では珍しい紀年銘鏡や鉄剣が見つかっている地域です。

 これまで、弥生時代の近畿地方の中心地は奈良盆地なんかではなくて、河内平野の方である事を示してきました。古代には、この地域に奈良湖や河内湖という巨大淡水湖が存在していましたが、その湖水が一足先に引いて天然の水田適地になったのが、河内平野です。また、邪馬台国時代の最先端技術ともいえる庄内式土器が大量に発見されたのは、河内平野の北部地域です。

 河内平野の北部は、飛鳥時代からの行政区分では摂津の国とされました。しかし河内平野と密接に関連している地域ですので、ここでは「北河内」という呼称で通します。

 北河内の土地の成り立ちは、巨大淡水湖があった河内平野とは異なります。淀川の下流域に当たりますので、河川の堆積物が積みあがって出来た沖積平野です。これは、筑紫平野、濃尾平野、関東平野などの太平洋側地域に多く見られる一般的な平野です。弥生時代にはまだ海の底だったり、湿地帯だったりして、農業を行える場所は非常に限られていました。

 大阪湾はこの図のようにかなり内陸部まで達していました。その上に、南にあった河内平野の湖とも繋がっていました。その為に、水田稲作が可能だった場所は沿岸部の限られていましたので、必然的に弥生集落が発生した地域は北部の山沿いに近い場所に集中しています。現在の大阪府茨木市や高槻市に当たります。

 具体的な弥生遺跡としては、庄内遺跡、安満遺跡、加茂遺跡、川西遺跡、などがあります。残念な事に、奈良盆地や河内平野の弥生遺跡と同じように、出土品は土器類が中心で鉄器類や宝石類はほとんどありません。強力な王族が存在していた根拠はなく、一般庶民が細々と生活していた姿しか浮かび上がってきません。

 なおここでも、銅鐸の出土は豊富にあります。銅鐸の用途はその形から、以前は権力者が祭祀を行う際に鳴らす鐘であるとする説が一般的でしたが、現在では崩壊しています。むしろ水田や灌漑を整備する為の測量器や水準器といった実用品とする説が有力になっています。つまり権力者が使用する道具ではなく、一般民衆が農地開拓に使用する為の道具だったという事です。これの詳細につきましては、また別の機会に考察する事にします。

 このように北河内の弥生遺跡もまた、近畿地方のほかの地域と同じように凡庸な集落しか存在せず、国家という強力な集合体が発生していたと考えるには、かなりの無理があります。

 一方でこの地域には、全く色彩の異なる際立った弥生遺跡もあります。安満宮山古墳です。

安満宮山古墳は、大阪府高槻市の公園墓地内にある一辺が20メートルに満たない小さな古墳です。もともとは6世紀から7世紀にかけて造られた安満山古墳群の中の一つの古墳、という認識でした。ところが1997年に、青龍三年の紀年銘鏡が発見された事によって3世紀後半、すなわち弥生時代末期の築造と改変されてしまいました。強引に邪馬台国時代のお墓であるとしてしまったのです。

 この時代推定の変更は、いわくつきです。奈良盆地の箸墓古墳と同じように、近畿中心主義の歴史学界の大きな力によって、年代曲解がなされたと言わざるを得ません。

 安満宮山古墳からの出土品は、青銅鏡が5面と、鉄刀・鉄斧などの鉄製品9点、ガラス小玉1600個余り、などがあります。

 青銅鏡は、三角縁獣文帯四神四獣鏡、斜縁二神二獣鏡、三角縁環状乳四神四獣鏡、平縁同向式神獣鏡、そして「青龍三年」銘が入った方格規矩四神鏡、です。青龍三年というのは、魏志倭人伝に記されている卑弥呼が魏へ朝貢した年の4年前の年号であり、日本国内では2点しか発見されていない貴重なものです。そのゆえに、魏の皇帝が倭国へ下賜した「銅鏡百枚」の内の1枚ではないか?と推測されています。

 ここで問題になるのは、3世紀とされているこの古墳の年代推定です。一般には古代遺跡の年代推定は、出土した土器の編年によります。奈良盆地からは多くの青銅鏡が出土していますが、それらは土器の編年から4世紀以降の古墳時代とされています。また弥生遺跡からの青銅鏡の出土は一枚もありませんので、4世紀以降と推定されます。。

ところが安満宮山古墳からは土器の出土はありませんでした。その為、これ幸いとばかりに、「青龍三年」銘が入っていた事を根拠に、3世紀の邪馬台国時代の古墳である、としてしまったのです。

これは頂けませんね?

 そもそも安満宮山古墳は、古墳群の中の一つです。周辺からは6世紀~7世紀の土器しか見つかっていません。さらに、紀年銘鏡以外の青銅鏡は、奈良盆地では4世紀以降の古墳からしか発見されていません。さらにもう一つ、同じ場所で見つかった鉄刀・鉄斧などの鉄製品9点、およびガラス玉は、近畿地方では5世紀以降の遺跡からしか出土していません。

 これらを総括すれば、安満宮山古墳の年代推定は決して3世紀ではありません。早くても4世紀。遅ければ7世紀の飛鳥時代の古墳。という事になります。「青龍三年」銘の貴重品はあっても、これを根拠に年代推定してはいけません。伝世鏡と見るのが妥当です。伝世鏡とは、宝物として長期間保存されたり、ほかの地域から持ち込まれたものが、後の時代の古墳に埋められたという事です。

 日本国内の紀年銘鏡は、安満宮山古墳を含めて8面が確認されています。ところが、これらの古墳の築造時期は、安満宮山古墳以外すべて古墳時代とされています。弥生時代とされているものはありません。それは先ほど述べました通り、出土した土器の編年によるもの年代推定であり、伝世鏡と見なされているからです。

安満宮山古墳だけは、土器の出土が無かった事をいいことに、ちゃっかりと弥生時代末期の邪馬台国時代としてしまいました。

 その理由は単純です。歴史学界の「近畿中心主義」です。奈良盆地を中心とする近畿地方で発見された遺物は、必ずと言っていいほど古い年代推定が行われています。典型的な例が箸墓古墳です。本来4世紀~5世紀の古墳であるはずが、一部の場所から発見された古い土器によって3世紀の邪馬台国時代へと変更されている事は有名ですね? これは明らかに箸墓古墳を卑弥呼の墓であるとする結論ありきの恣意的な曲解です。

 同じように安満宮山古墳についても、本来5世紀以降の古墳であるものを、3世紀の青銅鏡が見つかったのをいいことに、やはり邪馬台国時代のものとしているのです。このような年代推定は、近畿地方以外では絶対にあり得ません。そんな事をすれば歴史学界の重鎮たちが泡を吹いて激怒してしまいます。ところが近畿地方だけは例外で、当たり前のように曲解が行われているのです。人には厳しく自分には甘い、という歴史学界の風潮がここでも見られます。

 これによって、近畿のイメージがガラリと変わってしまいますよね? 3世紀に魏の国からの銅鏡が近畿地方に入って来た、という曲解だけではありません。近畿地方の弥生時代に、鉄剣や宝石類が存在していたという事にもなってしまいます。すると、近畿地方の邪馬台国時代があたかも先進的な地域だったかのような誤った認識を抱いてしまいます。 

 そもそも王族の存在を示す威信財は、近畿地方にはほとんどありません。ところが、安満宮山古墳だけで、鉄剣などの鉄製品9点とガラス小玉1600個があり、弥生時代の出土量のほとんどを占めています。これによって、一気に近畿地方に強力な王族が存在していたという誤解が生じてしまいます。

 早い話が、近畿地方が弥生時代には既に日本の強力な中心地だった、という結論ありきで安満宮山古墳や箸墓古墳の年代推定を曲解している、それを歴史学界の重鎮たちは黙認している、という事です。

 では安満宮山古墳の出土品は、いつ、どこから持ち込まれたものなのでしょうか?

おそらく、当時の先進地域だった日本海勢力が後進地域だった近畿地方へ、6世紀頃に持ち込んだものだと推測します。

「青龍三年」銘が入った方格規矩四神鏡は、日本国内で2点発見されていますが、もう一つは京都府峰山・弥栄町の大田五号墳からの出土です。この地は現代の行政区分でこそ近畿地方に属してはいますが、日本海側の丹後半島ですので、文化的には明らかに異なる場所です。良く知られているように丹後半島は、邪馬台国時代の鉄器出土量が日本一多い場所であり、巨大な弥生墳丘墓やそこに副葬されてた宝石類など、北部九州の弥生遺跡をも凌駕する絢爛豪華な弥生の遺物が見つかっています。私はこの地を、魏志倭人伝に記されている「投馬国」と比定しています。まさにその地から持ち込まれた可能性があります。

 また安満宮山古墳は、6世紀に近畿地方を征服した継体天皇が最初に都を置いた「樟葉野宮」に程近い場所にあり、継体天皇の陵墓である今城塚古墳もまた、このエリアです。継体天皇もまた日本海側の越前(現在の福井県北部地域)が出身地です。私はこの地を、魏志倭人伝に記されている「邪馬台国」と比定しています。越前からの鉄器の出土は、量こそ丹後半島に劣るものの数では2000点以上あり、日本一ですし、翡翠や碧玉の出土が多い事でも有名です。鉄器や宝石の集積地とも言える越前の地からやって来た勢力の主要なメンバーが「青龍三年」銘の方格規矩四神鏡を持ち込み、亡くなった際には安満宮山古墳に鉄器や宝石と共に葬られた、と推測するに無理はありません。

 これらのように北河内の弥生遺跡は、最も注目されている安満宮山古墳にしても、6世紀頃のものだと推測します。残念ながら顕著な弥生遺跡は全くありません。この地もまた、弥生時代には奈良盆地や河内平野と同じように、文明から取り残された後進地域だったという姿しか浮かび上がりません。

 しかしながら、この地域の古代遺跡の魅力は、弥生時代よりもその後の古墳時代や飛鳥時代にあります。

古墳時代に入ると状況は一変し、河内平野に巨大古墳が築造されるのと歩調を合わせるように、この地にも巨大古墳の築造が始まります。三島古墳群をはじめとする多くの古墳が存在し、かなりの規模の王族が4世紀~7世紀に掛けて存在していたのは間違いないでしょう。

 いかがでしたか?

北河内については、以前の動画・「藤原氏シリーズ」でも述べましたように、古墳時代後期から飛鳥時代に掛けての重要な場所です。継体天皇が最初に都を置いたとされる「樟葉野宮」は、実質的にヤマト王権が成立した最初の場所と言っても過言ではありません。また、飛鳥時代のキーマンである中臣鎌足が拠点としていた場所も、この北河内です。

次回は、邪馬台国時代を少し離れて、古墳時代や飛鳥時代の北河内を考察します。