近畿が日本の中心 その最大の理由

 こんにちは、八俣遠呂智です。

古代日本において、列島の中心地となった近畿地方。巨大古墳の造成が始まった四世紀には、確実に主役の座についていました。ではその前の弥生時代も、日本の中心地だったのでしょうか?

邪馬台国比定地の第一候補とされる近畿地方ですが、その実態はあまり知られていません。今回は、古代国家成立の基本である農業の視点から、この地域を見つめてみます。すると、日本の中心になるべくしてなった、しかし邪馬台国ではなかった、動かしがたい理由が見えてきます。

 前回の動画で、邪馬台国時代の近畿地方を定義しました。現代の行政区分とは異なり、京都府北部や兵庫県北部を除きました。このエリアは、日本海に面しているというだけでなく、先進的で明らかに異なる文化圏だからです。奈良時代の行政区分では、丹波、丹後、但馬という三国なのですが、元々は一つの国で、魏志倭人伝に記されている「投馬国」は、この地域を指しています。

 今回、この投馬国を除いた近畿地方について、農業の視点から考察して行きます。

 主な水田適地をピックアップして行きます。

まず、河内平野と奈良盆地南部があります。これらは日本古代史を語る上では外すことができない場所、というよりも明らかに最も重要な場所です。

そのほかにも、大阪平野の北部に位置する摂津の国・淀川下流域。

和泉の国だった大阪平野南部地域。

琵琶湖の湖畔地域。

兵庫県姫路市を中心とする播磨平野。

和歌山平野。

などがあります。

 現代の地図では、大阪市中心部に広い平野が広がっていますが、弥生時代にはほとんどが海の底でした。ここは、豊臣秀吉が大阪城を築造した16世紀でさえも、ほとんどが低湿地帯でした。

この場所に限らず現代の海岸線は、弥生時代には湿地帯や海の底でした。

 また、平城京が作られた奈良盆地北部と、平安京が作られた京都盆地は水田適地ではありません。不思議に思われるかもしれませんが、当たり前です。日本列島の盆地の多くは、淡水湖跡の沖積平野ですので、大抵は水田稲作に適しているのですが、これら二つの場所は例外です。扇状地のような粒子の大きい砂質の土壌なので、水はけが良すぎて田圃には不向きです。もちろん畑作農業は行えましたので、麦畑や桑畑に利用されていたようですが、農業の王様である水稲栽培に比べれば、収穫効率は格段に落ちてしまいます。

 水田には不向き、つまり農業をするには役立たずの土地だったからこそ、平城京や平安京という、計画的な都市国家が建設された訳です。

 これらの水田適地の成り立ちは、大きく二つに分けられます。

一つは、かつて巨大淡水湖が存在しており、その湖水が引いた沖積平野。

もう一つは、河川の堆積による沖積平野です。こちらの方が一般的な平野ですね?

 古代において、どちらが大規模な水田稲作地帯になったのでしょうか? もうご存じですね?

巨大淡水湖跡の沖積平野の方に軍配が上がります。

実際に、古墳時代に日本の中心地だった河内平野と、飛鳥時代以降に日本の中心地となった奈良盆地南部には、巨大な淡水湖が存在していました。その水が引いて広大な水田地帯となりました。

 そのほかの平野は、河川の堆積による沖積平野です。

この辺の土地の成り立ちと天然の水田適地との関係性については、「農業の視点シリーズ」にて詳しく述べていますので、ご参照下さい。

 近畿地方のそれぞれの水田適地については、追って順次考察して行くことにします。今回は、「なぜ近畿地方が日本の中心地になったのか?」という疑問に対する答えを示します。

 古代の経済活動は、99パーセント農業でしたので、大きな農業生産が上げられる場所にこそ、超大国が出現しました。当たり前ですね? 牛も馬もおらず、大型船の建造技術も無かった時代です。現代のような物流システムが整備されていない時代では、「地産地消」、すなわちその土地で取れた作物をその土地で消費するのが基本でした。工業化の波が押し寄せた明治時代に入るまでその傾向は続き、東京や大阪でさえも、大都会になったのは20世紀に入ってからの事です。

 では古代の日本列島において、大きな農業生産が上げられた場所はどこでしょうか?

現代の日本地図を眺めると、近畿地方の平野だけでなく、筑紫平野や濃尾平野、関東平野などの広大な平野がいくつも存在してる事が分かりますね? そしてどの平野でも大規模な水田稲作が行われています。それを考えれば、なにも近畿地方だけが日本の中心地になる素質があった事にはなりません。

 しかし古代の平野は、現代の感覚で判断してはいけません。近畿地方が日本の中心地となった確固たる理由が存在していたのです。

 著名な歴史研究家の中には、「近畿地方は地理的に日本列島の中心部に位置しているから」、などと高説を垂れる輩もいます。

しかし、そんな幼稚な理由では、決してありません。

残念ながら、歴史研究家の多くは、古代史の基本中の基本である農業の視点が欠落しているのが現状です。

 まず比較対象として、日本の中心地とはなれなかった、九州の筑紫平野から見てみましょう。

 この地図は、北部九州を拡大したものです。

ここは、朝鮮半島に近い場所ですので、先進的な大陸文化がすぐに入って来る場所です。仮にもし、この地の農業生産力が大きかったならば、強力な超大国が出現し、日本の中心となっていて然るべき場所です。ところが、邪馬台国時代から現代に至るまで、一度たりとも日本の中心になった事はありません。それはなぜでしょうか?

 それは筑紫平野が、一般的な河川による沖積平野だからです。牛も馬もいなかった時代に、このような平野を開拓開墾するのは至難の業です。河川の中流域や上流域へ行くと、弥生時代以前から陸地化していた為に、雑木林や密林地帯となってしまい、水田を作るには、木々の伐採から始めなければなりませんでした。天然の状態で水田に利用できたのは、海岸線に近い、湿地帯が干上がった場所だけでした。

 邪馬台国時代の筑紫平野は、有明海が福岡県久留米市あたりまで広がっていましたので、現代の筑後川下流域は、湿地帯や海の底でした。水田適地は、吉野ケ里遺跡、久留米市、八女市、山門を結ぶ線上に、僅かに存在していただけです。また、甘木朝倉という筑後川中流域は、土の粒子が大きい洪積層ですし、水田稲作が伝来する前に陸地化してしまった為に密林地帯となっていました。水田適地としては、三日月湖跡や谷底低地のようなほんの僅かの沖積地だけです。この地には、九州有数の拠点集落・平塚川添遺跡がありますが、まさに谷底低地のような場所に存在しています。

 このような理由で、筑紫平野には人口爆発は起こらず、日本の中心地とはなれませんでした。

 なお、濃尾平野や関東平野なども同じような過程で平野になりましたので、面積の割には水田適地は少なかったのです。人口爆発は起こらず、日本の中心地にはなれなかったという訳です。

 一方、近畿地方の河内平野や奈良盆地南部は、違います。かつて巨大な淡水湖が存在しており、それが干上がって出来た沖積平野です。湖の水が徐々に引き始め、平地が雑木林や密林地帯へと変貌してしまう前に、水田として利用できた場所です。牛や馬という動力の必要もなく、天然の状態で大規模な稲作を始める事ができました。そして、爆発的な人口増加をもたらし、日本の中心地へと成長して行ったのです。

 現代でこそ、河内平野や奈良盆地南部は、決して広大な平地とは言えません。しかしながら、古代からの平野の成り立ちを鑑みれば、間違いなく日本列島で有数の穀倉地帯でした。

 このように、近畿地方が日本の中心になった最大の理由は、淡水湖跡という広大な天然の水田適地だったという事なのです。

 なお、この地域に人口爆発が起こったのは、四世紀、すなわち古墳時代以降の事です。邪馬台国の時代にはまだ淡水湖の水が抜け切れておらず、広大な水田地帯が広がってはいませんでした。

この具体的な話は、今後の動画で紹介して行きます。

 巨大な淡水湖跡の水田適地が人口爆発を引き起こした、という古代の状況を追求して行くと、邪馬台国の場所を知る手がかりが見つかります。

それは、河内平野や奈良盆地南部と同じような構造の平野。しかも、それらよりも一足先に湖の水が引いた場所。すなわち、近畿地方よりも一足先に人口爆発が起こった場所。それこそが、「七万餘戸」もの人口を擁する弥生時代の超大国・邪馬台国という事になります。

 農業の視点からは、近畿地方は有力な邪馬台国候補地と言えますが、上には上がいます。その場所こそが、邪馬台国です。

 次回の動画では、北部九州に比べて近畿地方の方がはるかに農業生産力があった事、そして近畿地方のさら上を行く地域が存在している事を、明確な数値で示します。

 いかがでしたか?

近畿地方は、現代の広大な平野群の中で、最も広いわけではありません。面積規模から言えば、筑紫平野、濃尾平野、関東平野に劣後します。しかも鉄器の伝播は最も遅く、文化的にも遅れた地域でした。しかし古墳時代以降は日本の中心となりました。それは取りも直さず、淡水湖跡の沖積平野という地形的優位性があったからです。

 このように近畿地方こそが、魏志倭人伝に記されている敵国・狗奴国です。