後進地域・近畿を一人前にしてくれた若狭

 こんにちは、八俣遠呂智です。

近畿シリーズの26回目。邪馬台国があった弥生時代には、近畿地方はとても遅れた地域でした。それは、中国大陸から見て太平洋側は、裏側の内陸部に当たりますので、仕方のない事です。それでも先進的な日本海勢力が侵略して来た六世紀からは、湯水のように大陸文明が入り込んできました。そして、一気に日本の中心地へと成長を遂げて行きました。

 今回は、その立役者であり文明の玄関口とも言える北近江と、若狭湾地域に焦点を当てます。

 中国大陸と日本列島との古代文明を比較した場合、邪馬台国があった弥生時代や、その後の古墳時代には、残念ながら中国大陸の方が遥かに進んでいました。これは誰しも認めざるを得ないでしょう。

 当時の日本列島では、中国大陸との接点が多い地域ほど文明が進んでおり、そうでない地域はとても遅れていました。具体的には、北部九州から能登半島あたりまでの対馬海流の恩恵に預かる日本海地域が、先進地域。近畿地方をはじめとする太平洋側が後進地域。となっていた事に疑う余地はありません。これは、弥生遺跡という考古学的な視点からも明らかです。

 ところが、6世紀の古墳時代末期からは、近畿地方に先進的な中国文化が湯水のように流れ込んできました。そして日本の中心地へと急成長しました。

 これは前回の動画で示しましたように、邪馬台国の大王・継体天皇が近畿地方を征服した事が最も大きな要因です。これによって、学問や仏教などの先進的な思想、建築や造船などの技術が、一気に近畿地方へ伝播したのでした。

 この先進文明の玄関口となったのが、琵琶湖の北部地域であり、今回の主題である若狭湾地域です。

 この地図は、琵琶湖北岸と若狭湾を拡大したものです。

飛鳥時代の行政区分以降 若狭湾地域は、とても微妙な位置付けがされています。

文化的には明らかに一つなのですが、狭い地域にも関わらず、丹後・若狭・越前の三つの国に分けられてしまいました。非常に重要な地域だったが故に、一つの勢力になる事を恐れて、意図的に分割されたのではないのか? と勘繰ってしまいます。

 また、現代の主要都市では、それぞれ舞鶴、小浜、敦賀がありますが、舞鶴は近畿地方の京都府、小浜と敦賀は北陸地方の福井県になっています。文化圏と行政区分とがめちゃくちゃですね?

 今回はこれらの内、若狭の国の中心地だった小浜周辺について考察します。

 「鯖街道」をご存じでしょうか?

若狭の国から京都へ鯖を運んだ事から付けられた道の名称です。名称自体の歴史は浅いのですが、古代においては、中国大陸の最先端文明が近畿地方へ入って行く最も重要なルートでした。

 ルートの候補地としては、険しい山道を通るなど幾つもあるのですが、その中で最も利用されていたのは琵琶湖を通るルートです。

 まず、小浜から峠を越えて琵琶湖北西部の高島に入ります。そこから船で大津へ行き、逢坂の関を越えて京都・山科に入ります。陸路が整備されていなかった古代においては、このルートが最も便利だった事は容易に察しが付きますね?

 このルートが活用された最も古い事例は、継体天皇による近畿地方征服でした。これは日本書紀という文献史学的なものですが、考古学的にも十分に根拠づけられています。それは、金銅冠の出土地分布です。継体天皇の出身地である邪馬台国・越前から五世紀初頭の金銅冠が出土しています。これは、日本最古のものです。さらに六世紀初頭の金銅冠が、小浜にほど近い十善の森古墳と、高嶋の鴨稲荷山古墳からそれぞれ出土しています。まさに、継体天皇が近畿征服に乗り出した時期と一致しています。これら3ヶ所からの金銅冠は、いずれも朝鮮半島の百済・伽耶の王族の墓から出土している金銅冠と酷似しています。

 また、絢爛豪華な金銅製品が出土した事で有名な奈良県斑鳩の藤ノ木古墳との関連性も窺えます。なぜならば、法隆寺のすぐ隣にあるこの古墳は、継体天皇の曾孫である聖徳太子との関係が深いからです。

 このように、古墳時代後期以降、大陸文明が近畿地方へ伝来する大動脈として活用されていたのが、鯖街道だと言えるでしょう。

 王族が日本海側からやって来たルートというだけでなく、物資の運び込まれるルートだった事も確実です。

飛鳥時代に若狭湾から物資が運ばれていた史料には事欠きません。考古学史料として、奈良県橿原市にある藤原宮跡から出土した木簡に、若狭の国の塩の荷札が多数見つかっています。奈良盆地南部へ、このルートを利用して塩が多く運ばれていた事実が分かります。

 またこの他にも、平城宮の跡で発掘された木簡からも、若狭の鯛など10種類ほどの海産物が運ばれたと推定されています。

 1300年前の奈良時代から伝わるお祭りにも、このルートが重要だった事が分かります。

近畿地方に春を告げるお祭りとして有名な、東大寺二月堂で行われる「お水取り」です。毎年3月12日に盛大に行われますので、NHKの7時のニュースにも毎年取り上げられていますよね?

 これに10日間先立つ3月2日、若狭の国・小浜にて「お水送り」というお祭りも行われています。こちらはあまり有名ではありませんが、奈良の「お水取り」と合わせて、2つでセットのお祭りです。

 小浜の神宮寺というお寺から松明を持って、奈良盆地方面の若桜街道を遡る、すなわち鯖街道を奈良方面に向かって進むという、幻想的な奇祭です。

 これら2つのお祭りの起源は、若狭の国の神様に由来する神話とされていますが、私はそうは思いません。

遣隋使や遣唐使という古代日本の秀才たちが中国から帰って来た事を祝うお祭りが起源だと思います。

 冬の日本海の荒波が収まる3月上旬。留学を終えた遣唐使たちは、対馬海流を利用した海のスーパーハイウェイに乗って、若狭湾の小浜に帰国しました。そこで彼らをお出迎えして、奈良盆地まで送り出したお祭りが「お水送り」。鯖街道を通って10日後に奈良・東大寺に到着しました。そこでまたお出迎えをしてお祝いをしたのが「お水取り」だったのではないでしょうか?

 若狭の国・小浜が、古代日本の文明の窓口だった事を最もよく示しているのは、建築物や仏像です。これもあまり有名とは言えませんが、この地には、奈良時代のお寺や仏像が数多く存在し、国宝に指定されています。

主なところでは、明通寺の三重塔、羽賀寺、妙楽寺、などがあります。

 日本における仏教は、そもそも朝鮮半島の百済との繋がりが深かった邪馬台国の大王・継体天皇が近畿地方へ持ち込んだものですので、その入り口とも言える小浜の地に、最古級の仏教寺院があるのは、当然と言えば当然な話です。

 また、このような古い寺院が多数存在している事から、小浜は「海のある奈良」、と呼ばれる事もあるようです。

しかしこれは逆でしょう。文化の流れから言って、小浜が入口で奈良が出口です。すると、奈良の方が、「海の無い小浜」というのが正解ですね? Yes, we can.

 このように、若狭の国・小浜は、古代日本において最も重要な港だったと言えるでしょう。ところが現代では港町としてはあまりパッとしませんよね? 海上自衛隊の基地や造船所がある舞鶴や、シベリア鉄道へと繋がるヨーロッパへの窓口だった敦賀の方が、重要な存在になってしまいました。

 この最も大きな理由は、大型船の構造にあります。古代船の場合には、現代のタグボートのように船底が平らでしたので、水深の深い港は必要ありませんでした。むしろ砂浜のような場所の方が、上陸するのに適していました。さらに水深の浅い川を船曳して遡ったり、修羅引きのように陸地で船を引っ張ったりするのにも適していました。この点で小浜は、その名の通り水深の浅い浜が続いている場所なので好都合です。琵琶湖へ抜ける要衝だったのと同時に、古代の港としても理想的だったのです。

 一方で、舞鶴や敦賀は水深が深く、大きな港が作れる場所です。ジャンク船などの船底の深い構造船が出現した10世紀頃には、そちらの港でないと接岸できなくなったのです。そして、小浜の港としての役割は終了したのでした。現在では漁港はあるものの、大型船の行き来の無い、寂しい港になってしまいました。

 古代の話に戻します。

若狭の国の弥生時代の遺跡としては、西側に位置する投馬国・丹後、東側に位置する邪馬台国・越前と比較して、顕著なものはありません。前述しました6世紀の十善の森古墳の金銅冠の時代あたりからが、この地域に王族が出現するようです。

 一方で、弥生時代よりも遥かに昔の縄文時代には、有名な遺跡がありますよね? 鳥浜貝塚です。一万数千年前からの集落遺跡で、日本最古の丸木舟や、日本最古の装飾用真珠など大量の縄文遺物が見つかっています。青森の三内丸山遺跡と並んで、縄文時代のファンならば最初に思い浮かぶ遺跡ですよね?

 若狭湾は、対馬海流の西側からの流れが存在し、越前海岸にぶつかった潮の流れが巻き込むように入り込む海域です。しかも海流の影響を直接受けるわけではありません。冬場を除いて比較的穏やかですので、縄文人たちが海で狩猟するにも好都合だったのでしょう。

 また、丹後半島の浦島太郎や羽衣伝説のようなお伽話もたくさんあり、渡来人が対馬海流という自然の作用で流れ着く場所でもあったようです。

 なお、「若狭」という言葉は、古代朝鮮語の「ワカソ」という言葉が起源であるとする説があります。「ワカソ」とは、「行き来」という意味です。古代には、朝鮮半島からの渡来人たちが頻繁に行き来していたのかも知れませんね?

 いかがでしたか?

現代の感覚からすると、中国大陸からの文明の流入は、瀬戸内海を通って近畿地方に伝播したと考えがちです。しかし航海の困難さを考えれば、それは有り得ません。対馬海流に乗って若狭湾に入り、峠を越えて琵琶湖。さらに南下して近畿地方へと伝播したのです。考古学的な史料や、継体天皇などの文献史料がそれを物語っています。近畿地方からの視点では、若狭と北近江こそが、文明の窓口だったと言えるでしょう。

小浜の奇祭・手杵祭り

 小浜には、お水送りという奇祭があると紹介しましたが、もう一つ奇祭があります。「手杵祭り」というお祭りです。

 これは、「奈良時代に、村に漂着した渡来人のお姫様の一行を、財宝に目がくらんだ住民が襲って惨殺した」という悲しい歴史を悔んで、たたりをおそれた子孫たちがこの祭りを始めた。

とされています。

 これもやはり渡来人伝説ですね。日本海沿岸各地には様々な伝承や言い伝えがありますが、そのほとんどの元ネタは渡来人なんですよね。対馬海流恐るべし、です。

 古代の日本列島の文化は、対馬海流に乗って日本海沿岸地域に流れ着いた。というのは、考古学的な史料だけでなくて、お祭りや伝承の類にもたくさん残っているのですね?

 なお、この「手杵祭り」については、福井県議会議員の細川 かをり様から教えて頂きました。2020年12月の福井県議会一般質問で、「卑弥呼の墓・丸山古墳の発掘」について取り上げて下さった方です。

 以前に小浜市の小学校の先生をなさっていたそうで、小浜やこの地域の古代史についてとってもお詳しい方です。

 ちなみに、二年前から始めた「卑弥呼の墓発掘プロジェクト」はまだ諦めていません。色々と行動は起こしてはいるのですが、なかなか進捗がない状況です。

 何か新しい動きがありましたら、すぐにでも動画で紹介します。