畿内説の盲点 邪馬台国は琵琶湖?

 こんにちは、八俣遠呂智です。

近畿シリーズの30回目。今回から数回に分けて、総集編に入ります。

歴史のプロと言われる人達が支持する邪馬台国畿内説。最も大きな根拠は、考古学的な史料が豊富だとしています。ところが実際に調査してみると、四世紀以降の銅鏡が多いだけで、邪馬台国時代の顕著な遺物は見つかっていない事がよく分かります。今回は、近畿地方の弥生時代を考古学的な視点から纏めます。

 まずあらためて、弥生時代の近畿地方の定義から入ります。

現代では、奈良県・大阪府・京都府・滋賀県・和歌山県・兵庫県の二府四県が近畿地方となっています。

この中で、日本海に面した京都府と兵庫県の北部地域は除外しました。この地域は飛鳥時代からの行政区分で丹後・但馬・丹波に相当し、「三丹」とも呼ばれる独特な文化圏ですので、他の近畿地方とは全く異なります。

 弥生遺跡の質という点で、三丹は北部九州をも凌駕する優れた遺物が発見されており、奈良盆地のような後進地域と同じにしてしまっては、とても失礼です。

 なお私はこの地域を、魏志倭人伝に記されている「投馬国」に比定しています。

 三丹を除いた近畿地方における弥生遺跡はショボいものです。

奈良県の纏向遺跡が、畿内説の大本命とされていますが、具体的な詳細を調べて行くと、取るに足らないものだと分かります。

「日本一の面積規模を誇る弥生遺跡」、と威勢は良いのですが、単に運河と認められた範囲が広いだけの話です。ほかの弥生遺跡のような環濠で囲まれた面積ではありません。

「最大規模の大型建物群」、が発見されたとしていますが、この程度のレベルはほかの地域の弥生遺跡でもいくつも見つかっており、珍しいものではありません。

「日本全国からの土器」が見つかった、とされていますが、全体の15%に過ぎません。そんな割合であれば纏向遺跡に限った事ではなく、どの弥生遺跡でも同じです。

 とにかく纏向遺跡こそが特別であるという、マスコミ受けする「印象操作」が目立ちます。

 纏向遺跡の最大の特徴は、一般の人々が住んでいた痕跡が認められない事です。

多くの出土品はあるものの、生活用具や農耕具などの生活必需品、竪穴式住居のような一般庶民が住んでいた家などは、ほとんど見つかっていません。「日本一の面積規模を誇る弥生遺跡」であるにも関わらずです。

 見つかっているのは、開拓開墾用の土木工事用具がほとんどなのです。

畿内説支持者は、あまりこの事に触れたがりませんよね?

自説に都合の良い事は強調し、都合の悪い事は隠蔽しています。

これは九州説の専売特許かと思いきや、畿内説でも同じように行われているのです。

 纏向遺跡の出土品の特徴から私は、「計画倒れの計画都市である」、と考えました。運河などのインフラを整備して、いずれこの地を都にしようという考えがあったのかも知れません。ところが、工事の途中でなんらかの理由で頓挫してしまった。多くの人々が住むことなく、消滅してしまった。という事です。

 魏志倭人伝には、邪馬台国について「七萬餘戸」の住居があったと記されています。

一戸当たり6人住んでいたとして、42万人。当時としてはかなりの巨大都市です。もちろんこの数字が正確なものとは思えませんが、女王の都として相当程度の人々がいた事は十分考えられます。

 ところが纏向遺跡は広大な面積を有するにも関わらず、水田遺構が全く見つかっていません。強力な人口扶養力がある水田稲作が行われていなかったのです。古代社会は地産地消が基本ですので、これでは巨大都市は生まれませんね?

 なお纏向遺跡の立地条件自体にも問題があります。大和川が奈良盆地に流れ込む扇状地の上にありますので、そもそも水田稲作農業には適さない土地なのです。同じような扇状地に作られた平城京や平安京のように、行政機能に特化した計画都市として活用する思惑があったでしょうが、そもそも多くの人々の食料を賄えるような土地ではありません。

 あるいは、「食料は纏向遺跡の外の、周辺の土地で生産していたのだ。」という意見もあるでしょうが、その当時の奈良盆地南部は、古代奈良湖という巨大な湖が広がっていました。食料生産できる土地は限られていたのです。どうやって42万人もの人口を養うだけの食料を調達していたというのでしょうか?

 これらの理由から、纏向遺跡を中心とする奈良盆地南部に巨大な都市国家があった可能性は、全くありません。

では、畿内には大きな勢力が存在しなかったのか?というと、そうでもありません。

奈良盆地の西隣に位置する河内平野です。ここは、日本一大きい大仙古墳を有する百舌鳥古市古墳群がある場所として有名ですね? 近畿地方において四世紀頃から急成長したのは、この河内平野です。奈良盆地とよく似た土地の成り立ちをしており、弥生時代までは巨大な淡水湖が広がっていました。その湖の水が引くことによって、巨大な水田適地が広がり、古墳時代の巨大都市へと成長した訳です。

 私はこの地を、弥生時代における畿内の中心地であり、魏志倭人伝に記されている敵国・狗奴国であると見ていました。

 しかし今回、あらためて近畿地方を調査する中で、考えが少し変わりました。

それは、畿内の中心地は河内平野ではなく、琵琶湖南部地域にあったという考えです。

 琵琶湖南部・野洲川流域には、多くの弥生遺跡があります。その中で拠点集落と言える「伊勢遺跡」の存在は突出しています。伊勢というと三重県の伊勢神宮を思い浮かべてしまいますが、ここは滋賀県の弥生遺跡です。お間違えのないように。

 纏向遺跡よりも100年ほど前の二世紀頃もので、特殊建物が多く見つかった祭祀用に特化したした遺跡です。運河が建設されている事や、一般の人々の生活臭が無い事など、纏向遺跡に共通している、というか3世紀に作られた纏向遺跡の原型のような場所です。ただし野洲川流域の他の弥生遺跡からは生活臭のある遺物が多く見つかっていますので、決して計画倒れの計画都市ではありません。

 畿内の中心地が琵琶湖南部地域だという考えに至ったのは、一つには伊勢遺跡の存在ですが、それよりも重要な点があります。それは農業生産力です。琵琶湖を有する近江の国は、奈良盆地や河内平野を圧倒する天然の水田適地に恵まれています。物流網が存在せず地産地消が当たり前だった古代社会においては、強力な農業生産を上げられる土地にこそ、大きな勢力が出現するのです。その最も重要な要素を満たしているのが、この地域です。

 伊勢遺跡を中心とする琵琶湖南部地域に狗奴国の都が存在し、当時の文明先進地域だった日本海勢力、すなわち女王國連合と敵対していたと考えます。

 なお、伊勢遺跡は2世紀頃に突然消滅しています。そして同じ時期に、奈良盆地に纏向遺跡が出現しています。どうやら琵琶湖南部から奈良盆地南部へと、狗奴国の都が移されたのではないのか? という推測も成り立ちます。

 都が移された理由は、北方の邪馬台国の勢力が侵略して来て、その圧力によって南部の奥地に避難せざるを得なかったのではないのか? というファンタジーも描けますね?

 これらのように、近畿地方の弥生時代を考古学的な視点から眺めてみると、決して強力な勢力が存在していたわけでありませんでした。そんな中で、琵琶湖南部地域が一人気を吐いていた、という姿が浮かび上がりました。

 一方で、琵琶湖北部地域は、文化的に日本海側との共通項が多く見られました。多くの鉄器鍛冶場跡が見つかった滋賀県彦根市の稲部遺跡や、鉄器の出土が多い滋賀県高島市など、日本海地域の文化圏と共通する出土品が多いのが特徴です。

 考古学的な見地からは、琵琶湖の南部と北部で異なる勢力が存在していた可能性があります。南部は狗奴国、北部は女王國の支配地域だったと推測します。ただし、この弥生遺跡の状況だけからは不十分です。この勢力構図は、神功皇后などの文献史学的な見地から、確信に至りました。

 この詳細は次回にて。

 いかがでしたか?

畿内は4世紀~5世紀の巨大古墳の造成のイメージが強すぎて、その前の弥生時代にも強力な勢力があったと勘違いされがちです。私も、昔はすっかり騙されていました。しかし冷静に弥生時代の畿内を調査すれば、誰しもその矛盾に気が付くでしょう。

 なお、プロの歴史家が邪馬台国畿内説を推すのには、理由があります。それは、万世一系を基本とした皇室への忖度です。

実在の確実な飛鳥時代へと続く天皇家の美しい流れを謳っておけば、飯の食いっぱぐれがない。といったところでしょうか?

琵琶湖の水は真っ赤に血塗られている

 近畿地方については、何十年も調査してきましたので、てっきり分かったつもりでいました。しかし現場100回ですね?

100回訪ねてでも慎重に調査すべきであるということを、今回痛感しました。

何度も調べれば、新たな視点で、新たな証拠が浮かび上がります。

今回の新たな発見は、琵琶湖地域の勢力分布です。一つの湖には一つの勢力、という勝手な思い込みがあって、そこで勢力が分断されていたなんて、そんな事、これまで考えもしませんでした。

 しかしそういう線引きをする事で、邪馬台国と狗奴国との位置関係、勢力関係、そして文化的差異が明確になってきます。もはや弥生時代の奈良盆地や河内平野など、眼中にはありません。

 そもそもこの地域、近江の国は、古代から農業生産の高い、天然の水田適地です。この地の豊饒な農業生産力を巡っては、常に戦いが起こっていますよね? 歴史的な事実として、七世紀の壬申の乱から、16世紀の戦国時代まで、琵琶湖の水が真っ赤に染まるほどの戦いが繰り広げられて来ました。それほど重要な場所です。

邪馬台国の時代にも、同じように血塗られた歴史があったとしても、何ら不思議ではありません。