奈良盆地の幻想 畿内説は荒唐無稽

 こんにちは、八俣遠呂智です。

近畿シリーズの5回目。今回は、邪馬台国が近畿地方、特に纏向遺跡にあったとする説の重大な問題点を指摘します。

この遺跡がある奈良盆地南部は、北部に平城京が完成する八世紀前半までは、確実に都でした。明日香村から発見されている藤原京をはじめとする遺跡群は、如実にそれを物語っています。ではいつの時代からこの地が都だったのでしょうか? 決して邪馬台国の時代からではありまん。

 奈良盆地南部に存在する纏向遺跡は、邪馬台国比定地論争の有力候補地です。周辺諸国からの多くの土器類や、大型建物跡、水路跡などが発見されていますので、巨大な都市国家の建設が意図されたものである事が分かります。

しかしその計画は、頓挫してしまいました。四世紀の古墳時代に入ると、跡形もなく消え去っているのです。

 前回の動画では、この原因を河内エリアの王族との水利権を巡る争いだと推測しました。争いに勝利した河内勢力はその後、百舌鳥古墳群に見られるような巨大古墳群の造成を行うなど、この世の春を謳歌する事になります。古墳時代初期から中期の中心地は、明らかに河内平野の方でした。

 ところが邪馬台国論争では、どういう訳か河内平野に都があったという説は、ほとんど見かけません。近畿地方の中心地は、常に奈良盆地南部にあり、河内平野は脇役のような存在です。

 それはなぜでしょうか?

 一つには、河内平野には纏向遺跡のような巨大な拠点集落跡の発見がない、という事が上げられます。

 河内平野には、西ノ辻遺跡や鬼虎川遺跡などの集落跡は見つかっていますが、小規模な上に計画都市ではありません。

 考古学的に奈良盆地南部の方が文化的に進んでいたという印象を持ってしまいがちです。

但し、纏向遺跡にしても河内平野の遺跡にしても、鉄器類の出土はほとんどありません。どちらも、文明的には後進地域だった点では同じです。

 弥生土器の点からは、河内平野が優位です。弥生時代末期の近畿地方の典型土器である「庄内式土器」は、生駒山地の西側の胎土が使われています。これは、米の煮炊きするのに優れた甕を特徴とするものです。

近畿地方の中では、河内平野の方に一早く稲作文化が伝播して来た事が分かります。

 奈良盆地の方は、次の時代の古墳時代になってからようやく優れた土器が生まれます。布留式土器と呼ばれるもので、奈良盆地南東部から出土しています。

 土器の変遷から見れば、河内平野から奈良盆地へ文化の移動があった事が見て取れます。

 一方、文献史学では、奈良盆地南部が圧倒的優位です。当たり前ですね?

そもそも古事記や日本書紀は、飛鳥時代末期に編纂が始まった書物であり、ヤマト王権が奈良盆地南部で完全に成立した後に書かれたものです。大和王権が、太古の昔からこの地に存在していたかのように記述したのは、自然な流れでしょう。権力者は戦いの勝者であり、自分自身の正当性を美化する為に歴史書に書き連ねるものですから。

実際に、初代・神武天皇が都を拓いたとされるのは橿原の地ですし、その後の天皇たちもそろってこの周辺に都を置いたとなっています。

 このように文献史学に素直に従えば、奈良盆地南部こそが神武東征以来の大和王権の中心地であり、古墳時代・飛鳥時代へと繋がって行った、となってしまいます。そんな先入観が、私たちの頭の中に刷り込まれてしまっているのです。

 もちろん私も、邪馬台国研究を本格的に始める前までは、そんな幼稚な先入観に支配されていました。

なお、古墳時代の巨大古墳群が造成されたのは河内平野の西にある上町台地ですので、このエリアに強力な王朝が存在していたと主張する研究者も多数存在します。しかしながら、それらの主張はあまり一般化していませんね?

 歴史学は文献解釈が主体ですので、「記紀に書かれているものは存在し、書かれていないものは存在しない」。などという安直な脳ミソの歴史家が幅を利かせているのが、諸悪の根源です。

 古事記や日本書紀の内容がどうあれ、巨大古墳の存在しているという事実から、河内平野の方に強力な王朝があったのは自明です。邪馬台国の時代には、河内平野にこそ強力な王族が存在していました。その名称は、魏志倭人伝に記されている邪馬台国の敵・「狗奴国」です。

 では、その当時やそれ以前の奈良盆地南部は、どのような状況だったのでしょうか?

 その当時は、巨大な淡水湖が広がっており、湖岸の水田適地に小さな集落が発生しているような状態でした。邪馬台国という七万余戸もの超大国が誕生するのは不可能でした。それだけの人口を賄うだけの農業生産を上げる事は出来なかったからです。

 それを如実に証明する弥生遺跡があります。唐子鍵遺跡です。これは、奈良盆地中部に位置しており、弥生時代中期から古墳時代初期に掛けての遺跡です。比較的標高の低い場所で沖積層から成る土地ですので、纏向遺跡とは異なり、天然の水田適地の中に立地した集落遺跡です。

 この遺跡では、弥生時代に何度も水没している事が分かっています。つまり、この地の淡水湖の水が引けば集落が発生し、淡水湖の水が増えれば水没してしまう。そういう歴史を何度も繰り返していた遺跡です。

 水没を避けるには、奈良盆地から外に流れ出す水量を調節すれば、簡単に解決できたはずです。しかしそうはしなかった。というよりも、させてもらえなかったのではないでしょうか? 奈良湖の水が増えたからといって安易に水を抜けば、河内平野が水没してしまいます。奈良湖の水が減ったからといって安易に水を止めれば、今度は河内平野の水が枯渇してしまいます。

 このように、古墳時代までは河内平野の王族の権力が上回っており、奈良盆地の方は思うように水田を広げる事が出来なかった、あるいは河内平野の都合で水没させられてしまった、という状況だったのです。

 なお水利権を巡る争いは、普遍的なものです。江戸時代までよく見られますが、それどころか現代でも起こっていますね?

リニア新幹線建設計画で、静岡県が水の権益を主張して駄々をこねているのは有名ですね? 大井川上流部の地下をトンネルで通過する計画ですが、トンネル工事による環境への影響が危惧されている、として意固地になっています。

 奈良盆地南部に強力な勢力が出現したのは、邪馬台国の時代ではなく、ずっと後の古墳時代後期・西暦500年頃からです。もちろんそれ以前にも小さな豪族の存在はありました。纏向遺跡周辺の大和古墳群(おおやまとこふんぐん)からは、多数の小規模な前方後円墳が存在していることからも分かります。古墳の規模としては、河内平野の百舌鳥古墳群に遠く及ばないものの、小型化して行った六世紀の古墳が多く存在します。

 ではいつから奈良盆地南部にヤマト王権が誕生したのでしょうか? 

日本書紀を盲目的に信用している人は、初代・神武天皇からだと言うでしょうが、実際には第25代・武烈天皇までは神話の人物です。実在を証明する考古学的な史料は一切ありません。すなわち、その時代にはまだヤマト王権は誕生していないのです。

 実在の確実な最も古い天皇は、26代目です。この天皇の出身地は近畿地方ではないという特異性がありますが、それだけでなく、都を置いた場所も、河内平野の北部や、京都盆地など、不思議な経路を辿って、最終的に奈良盆地南部にやって来ています。

間違いないでしょう。第26代継体天皇こそが、初めて奈良盆地南部に都を置いた人物です。

 いかがでしたか?

「奈良盆地」と言えば古代日本の中心地。そんな先入観を誰しも持っている事でしょう。それは、小学校から学んだ歴史教育が生んだ弊害だと言えます。子供のころに刷り込まれた先入観からは、なかなか抜け出せるものではありません。一方、歴史教科書を作る側としても、日本書紀を柱にしない事にはどうしようもない、という事情もあります。

 邪馬台国畿内説は、そんな先入観に素直に従っていますね? 一度、農学・地学などの自然科学の分野から、奈良盆地を眺めてみましょう。そんな幻想は一気に吹き飛びます。