歴史のはじまり。継体天皇、大和王権は6世紀~

 こんにちは、八俣遠呂智です。

近畿シリーズの6回目。今回は農業生産力の観点から、古代の奈良盆地の様子を考察します。古墳時代からは河内平野に強力な勢力が存在していましたが、奈良盆地の方は古墳時代後期になってからようやく、大きな勢力になった事が分かります。そして、ヤマト王権が成立したのは6世紀頃と推測できます。その時代は丁度、越前の大王が近畿地方にやって来た時代と一致しています。

 邪馬台国が近畿地方にあった。そして、奈良盆地南部の纏向遺跡がその中心地だった。という説に対しては、かなりの無理がある事を、これまでに示してきました。

 古墳時代以前の奈良盆地には、巨大な淡水湖が存在しており、水田稲作農業を行える場所が限られていた事が最も大きな理由です。国の基は農業なり。農業生産の弱い場所には人口扶養力がなく、大きな国家は誕生しません。魏志倭人伝に記されている「七万余戸」もの超大国が、奈良盆地に存在していた可能性は無いのです。

 この地域の勢力を俯瞰してみると、弥生時代にはまだ強力な豪族はおらず、四世紀の古墳時代に入ってからようやく、王朝が誕生しました。その中心地は、奈良盆地ではなく河内平野の方でした。百舌鳥古墳群に見られる巨大な古墳群の存在がそれを物語っています。

 奈良盆地にヤマト王権が誕生したのは、せいぜい古墳時代後期の六世紀頃の事です。

今回は、この辺の事情を農業生産力の視点と、文献史学との整合性から突き詰めて行きます。

 奈良盆地や河内平野が、いつの時代から大きな勢力になったかを、農業生産力を数値化して示します。

なおこれから示しますデータは、以前の動画「近畿シリーズ(3): 近畿は九州に勝る しかし邪馬台国にあらず」と同じものです。

 日本において農業生産力が数値化されたのは太閤検地からで、正確なものは江戸時代からになりますので、古代の実情は近世のデータからの推測です。

 ここでは、江戸時代初期の石高帳のデータと、明治時代初期の石高帳のデータを用います。この江戸時代260年間の石高推移から、古代の農業生産力が分かります。

 まず、大和の国と河内の国の石高は、それぞれこのようになります。参考として、北部九州の筑後の国の石高推移も示しておきます。

 開拓開墾が盛んだった江戸時代ですが、大和、河内ともに、あまり石高の伸びはありません。これは、元々が天然の水田適地だった為に古代から大いに水田稲作が行われており、江戸時代には高止まりしていて伸びしろが無かったという事です。一方、筑紫平野に位置する筑後の国は、古代にはほとんどが有明海の底や湿地帯だった場所ですので、伸びしろは大きく、江戸時代になってようやく農業生産力が高まった事が分かります。

 この江戸時代の石高推移が、ずっと同じペースで進んで来たと仮定して、古代の石高を推定します。すると、このようになります。

 筑紫平野の筑後の国は、元々は有明海の底だった場所ですので、14世紀頃からようやく農業生産が上がっています。

この地は、邪馬台国九州説の本丸ですが、農業の視点からは論外ですね?

 一方、邪馬台国時代に農業生産があったのは河内の国で、15万石ほどの生産力があります。大和の国は、5万石ほどですので、その当時の国力では、河内の国の方が3倍も国力があった事になります。

 この地域には、古代の淡水湖湖、河内湖と奈良湖がありましたが、河内湖の水が先に引き始めて天然の水田適地が広がって行った様子が、農業生産力からも明らかに分かります。

 大和の国の農業生産は、奈良湖の水が遅れて引き始めましたので、古墳時代後期から飛鳥時代に掛けて、ようやく河内の国を上回る規模になっていま この江戸時代の石高推移が、ずっと同じペースで進んで来たと仮定して、古代の石高を推定します。すると、このようになります。

 筑紫平野の筑後の国は、元々は有明海の底だった場所ですので、14世紀頃からようやく農業生産が上がっています。

この地は、邪馬台国九州説の本丸ですが、農業の視点からは論外ですね?

 一方、邪馬台国時代に農業生産があったのは河内の国で、15万石ほどの生産力があります。大和の国は、5万石ほどですので、その当時の国力では、河内の国の方が3倍も国力があった事になります。

 この地域には、古代の淡水湖湖、河内湖と奈良湖がありましたが、河内湖の水が先に引き始めて天然の水田適地が広がって行った様子が、農業生産力からも明らかに分かります。

 大和の国の農業生産は、奈良湖の水が遅れて引き始めましたので、古墳時代後期から飛鳥時代に掛けて、ようやく河内の国を上回る規模になっています。

 これは大和王権が、古墳時代後期の6世紀頃に成立して、中心地が河内平野から奈良盆地南部へと移って行った事との整合性が取れています。す。

 これは大和王権が、古墳時代後期の6世紀頃に成立して、中心地が河内平野から奈良盆地南部へと移って行った事との整合性が取れています。

 ではこのグラフに、邪馬台国の石高推移を重ねてみます。狭い面積の地域ながらも、2世紀頃にはすでに64万石ほどの農業生産力がありましたので、魏志倭人伝に記されている「七万余戸」との整合性が取れています。また河内の国や大和の国と比較すると、圧倒的な国力の差がある事が分かりますね?

 この国力の差は、古墳時代に入っても続いています。6世紀には奈良盆地南部でヤマト王権が成立していますが、これは邪馬台国の大王・継体天皇が奈良盆地南部の磐余玉穂宮に都を置いた時期と一致します。

 文献史学上では、辺鄙な田舎の大王が、ヤマト王権に招聘されて近畿地方にやって来た。という扱いになっていますが、とんでもない誤りですね?

 継体天皇は奈良盆地南部に都を置くまでに19年もの月日を要していますが、凡庸な歴史家たちはこれを、「ヤマト王権になかなか受け入れてもらえなかったから。」としています。果たしてそうでしょうか?

 その当時の国力を考えれば、邪馬台国の方が圧倒的に上です。真実は、日本書紀の記述とは全く異なりますね?

 正しい歴史を順序だてて推測してみましょう。まず、豊饒な農業生産のある邪馬台国の地に、後の継体天皇となる大王が誕生しました。

その当時の近畿地方は、河内平野の水田バブルで、無意味な巨大古墳の造営にうつつを抜かしていました。

当然ながら周辺諸国からの反発を買いました。

越前の大王が征伐に乗り出しました。

最初は河内の国の北部に拠点を置いて、既存勢力と対峙しました。

淀川水系の要所に次々と拠点を移して、農地開拓を行いました。

最終的には、最も大きな農業生産が期待できる奈良盆地南部へと都を移して、さらなる農地開拓を行いました。

この地を、邪馬台国にちなんでヤマトと命名し、ヤマト王権が誕生しました。

それは、奈良盆地南部に水田適地が広がり始めた六世紀の事でした。

 もちろんこれらは私の仮説に過ぎません。しかし、考古学的に実在の確実な最も古い天皇は継体天皇ですので、この仮説に無理はないでしょう。

 なお一般的には、越前の大王だった継体天皇が、近畿地方に既に存在していた大和王権に招聘された。あるいは、近畿地方を征服して、王朝交代が起こった。とされています。

 しかし実際は全く違います。元々この地にヤマト王権など存在していなかったのです。

大都会だった邪馬台国・越前の勢力が、あまりにもショボい田舎だった奈良盆地にやって来て都を開き、そこからヤマト王権の歴史が始まった、と見る方が正しいでしょう。それ以前の奈良盆地には、邪馬台国どころかヤマト王権さえも無かったのです。

 いかがでしたか?

今回の考察で、古代史の闇が少し晴れたような気がします。奈良盆地南部は、明らかに5世紀までは湖の底でしたので、超大国が出現する下地はありませんでした。ではどうしてこの地が日本の中心になったのか? という疑問に対して、継体天皇は明確な答えを出してくれたようです。なお、本来初代天皇であるべき継体天皇が、記紀ではショボい天皇の扱いになっているのは、後の藤原氏一族の陰謀です。邪馬台国を歴史から抹消したのと同じ理由で、継体天皇の実績も抹消されたのでした。