三角縁神獣鏡 古墳時代に大量生産?

 こんにちは、八俣遠呂智です。

近畿シリーズの7回目。今回は畿内説支持者が主張する邪馬台国の根拠の一つ、青銅鏡についてです。青銅鏡は明らかに権力者しか持つ事のできない「威信財」です。近畿地方からの出土は数百点にも及び、この地に複数の強力な豪族が存在していた事を物語っています。しかしながら、それらは邪馬台国よりも100年も後の時代に造成された古墳からの出土です。時代的な乖離がありますね?

 邪馬台国畿内説の根拠としては、纏向遺跡の存在のほかにも多数あります。その中の一つが青銅鏡の出土です。

これは畿内説に限らず、九州説においても青銅鏡の出土状況を根拠にする場合があります。

青銅鏡は強力な王族しか持つことの出来ない「威信財」ですので、強力な国家が存在していた事の根拠にはなるでしょう。青銅鏡には様々な種類があり、デザインによって呼び名が付けられています。三角縁神獣鏡、画文帯神獣鏡、方格規矩鏡、内行花文鏡、などがあります。

近畿地方では、三角縁神獣鏡の青銅鏡の出土が多く、これこそが邪馬台国時代に魏の国から下賜された銅鏡である、と主張する研究者もいます。

 では、近畿地方における青銅鏡が出土した主な場所を示して行きます。

奈良県天理市の黒塚古墳は最も有名ですね? ここからは三角縁神獣鏡が33面と最も多く、画文帯神獣鏡1面も出土しています。次いで、京都府木津川市の椿井大塚山古墳(つばいおおつかやまこふん)からは三角縁神獣鏡が32面、内行花文鏡など4面が出土しています。

 これらの古墳は、ともに邪馬台国時代よりも後の四世紀に造成された100m級の前方後円墳です。古墳時代に入ったばかりの時期のもので、纏向遺跡の中にある箸墓古墳と共に、「出現期古墳」と総称されています。なお、畿内説支持者が卑弥呼の墓だと強く主張している箸墓古墳からは、青銅鏡の出土は1面もありません。

 出土数の最も多い三角縁神獣鏡は、日本列島全域で500面近くも出土しており、その半数近くが近畿地方からのものです。しかしこの鏡を、魏からの下賜品とするには、かなりの無理があります。

 まず、魏から下賜されたのは100面で、日本で見つかっているのは5倍の500面ですが、また、未だに土の中に埋もれているものや、盗掘などで失われたものも含めると、その数は十倍の5000面以上になると推測されています。これでは、あまりにも数が多すぎますね?

 また、出土してた古墳の造成時期は、邪馬台国の時代とは合っていません。四世紀の古墳からの出土ですので、100年以上も後のものです。弥生時代には貧しかった近畿地方に水田バブルが訪れ、巨大古墳の造成が始まりましたが、そんな古墳時代と、三角縁神獣鏡が作られた時期とが重なります。残念ながら、女王・卑弥呼はとっくに死んでいる時代のものなのです。

 さらに中国・魏の国からは、この三角縁神獣鏡の発見はありません。黄河流域だけでなく青銅鏡発祥の地である長江流域など、中国のどこからも見つかっていません。つまりこれは、中国製ではなく日本国内で独自に作られた可能性が高いという事を意味しています。

 もちろん、これらの問題点に対する畿内説支持者の反論もあります。

まず、大量に見つかっているのは日本国内でコピー品が大量生産されたから。いわゆる同笵鏡と呼ばれる同じ鋳型を使ったコピー品である。という主張です。また、時代的に邪馬台国よりも後なのは、受け取った宝物を大切に保管した為に、その時代にはお墓に埋める事はせず、後の時代の持主が亡くなってから埋葬した。その為に、時間的なラグが生じた。という主張です。いわゆる「伝世鏡」という考え方です。

 この中にはもっともな内容もあります。同笵鏡についてです。

大量に見つかっている三角縁神獣鏡は、近畿地方だけでなく、関東地方や九州地方でも発見されています。日本列島のどこかで大量生産されたのと同じものが、全国に広がったのは間違いありません。時代的には、四世紀の古墳時代から強力な勢力になったのは近畿地方ですので、そこで大量生産された可能性は高いでしょう。しかし、三世紀の邪馬台国の時代ではありませんね?

 伝世鏡の考え方については、情緒的で、どうにでも解釈できてしまいますので、ここでの考察は控えます。

 一方、中国で三角縁神獣鏡が発見されていない事については、2010年頃に見つかった、というニュースがありました。これについては残念ながら、功を焦った中国人研究家によるフェイクニュースだった事が明らかになっています。三角縁神獣鏡は、やはり日本国内でのみ作られた可能性が高いでしょう。

 どの青銅鏡が魏から下賜されたものなのか? という疑問に対しては、様々な説が唱えられています。

邪馬台国の比定地をどこにするか? という命題に対して、それぞれに都合が良いように論を組み立てています。

畿内説ならば大量の三角縁神獣鏡。九州説ならば平原遺跡から出土している多彩な銅鏡類。といった具合です。

 平原遺跡は福岡県糸島市の弥生遺跡で、魏志倭人伝に記されている「伊都国」の可能性が高い場所です。ここからは、銅鏡40枚をはじめとして、鉄の刀や瑪瑙の勾玉など多彩な威信財の出土があります。

 銅鏡の内訳は、

大型の内行花文鏡 5面。内行花文鏡 2面。方格規矩鏡 32面。などです。これらは近畿地方から出土している青銅鏡とは異なり、明らかに弥生遺跡からの出土ですので、後の時代に埋められた「伝世鏡」云々の議論にはならない、純粋な邪馬台国時代の銅鏡です。

 しかし、残念ながら大型の内行花文鏡については、日本国内産である事が既に検証されていますので、魏から下賜された品ではありません。

 出土品という考古学史料から、魏志倭人伝という文献史学的史料を結びつけるのは、なかなか難しいものですね?

 可能性としては、近畿で大量に発見されている三角縁神獣鏡よりも、伊都國・福岡県糸島市で発見されている青銅鏡の方が、可能性が高いでしょう。平原遺跡の銅鏡は、大型内行花文鏡を除いては、中国産である可能性がまだ残っていますし、まさに邪馬台国時代の遺物だからです。

魏志倭人伝には、伊都國について、

 郡使往來常所駐

郡使往來し、常に駐する所。とあります。

すなわち、魏からの使者たちが逗留していた場所である事が明記されています。また、伊都國に関する記述は非常に詳細で、入国管理局や検察庁の役割、倭国の国王たちが滞在する場所だとも記されていますので、女王國の重要な出先機関であった事が明確です。この地に魏からの下賜品が保管されていたとしても、なんら矛盾はありません。

九州説に限らず平原遺跡の銅鏡こそが下賜品とすれば、どの説にとっても辻褄が合いますね? 女王國は広域の諸国連合国家であり、その出先機関が九州の伊都國です。邪馬台国は女王の都です。何も、魏から下賜された青銅鏡が置かれていた場所こそが邪馬台国だという論理にはなりません。

 なお私は、魏からの下賜品は、三角縁神獣鏡ではなく、平原遺跡の青銅鏡でもない、と考えています。詳細は次回の動画にて。

 いかがでしたか?

青銅鏡に限らず、出土品から邪馬台国を比定するのは不可能ですね? 魏志倭人伝に書かれている物品が見つかったからと言って、そこが邪馬台国だという根拠にはならないからです。青銅鏡しかり、絹しかり、朱丹しかりです。ただし、邪馬台国が属する広域の連合国家・女王國であるという根拠にはなります。その点では、出土品の考察は重要でしょう。

 邪馬台国の根拠は、七萬餘戸という国の規模とそこへ辿り着くまでの行路、その2点だけです。