纏向遺跡が遺したもの 箸墓古墳 技術の飛躍

 こんにちは、八俣遠呂智です。

近畿シリーズの9回目。今回は、頓挫して消滅した計画都市・纏向遺跡は、一体何を遺したのか? という視点から考察します。弥生時代末期は、大規模な水田稲作が行える場所に巨大な国家が出現した時代です。越前では邪馬台国が出現し、近畿では狗奴国が出現したのです。纏向遺跡はそんな中で行われた日本最初の計画都市でした。近畿地方以外から多くの人々がやって来た痕跡もありますので、後の古墳時代への影響は計り知れないものだった事でしょう。

 纏向遺跡は、近畿地方に存在していた狗奴国によって建設が進められた日本最初の計画都市です。奈良盆地南部の巨大淡水湖を干拓する事によって、広大な水田地帯へと変貌させて強力な大国へと成長させる事を目論んだものでした。残念ながら、この計画は道半ばで頓挫してしまいました。それは、これによって不利益を被る大和川下流域・河内平野の勢力によって、計画が阻まれたからです。

 では纏向遺跡は何の役割も果たせなかったのでしょうか?

いいえ、そんな事はありません。後の古墳時代にしっかりと大きな影響を及ぼしています。

特に、土木工事の技術の向上は、顕著なものがありました。纏向遺跡からは、大和川に通じる水路の建設など、交通インフラの整備が進められた痕跡があり、出土品の工具類のほとんどが土木工事を行う為のものでした。それ以前の遺跡にはない、土木工事に特化した遺物が満載なのです。

 計画都市という土木工事の大きな需要があったからこそ、大きな技術の進歩があり、その後の日本列島の国造りの下地が醸成されたのでした。

 そもそも技術の進歩というは、大きな需要がないことには始まりません。古今東西、どこでもそうですね? 典型的な例は、戦争による科学技術の進歩です。日本の戦国時代には火縄銃が爆発的に生産された事は有名です。その当時としては、日本一国だけでヨーロッパ諸国よりもはるかに多くの銃が生産されていました。これに限らず、第一次世界大戦では、タンクや戦闘機、第二次世界大戦では化学兵器や航空母艦やジェット機、さらには原子力など、平和利用すれば大いに役に立つ技術が、殺人兵器として開発されました。それらは、平和な時代であれば予算がつかない研究開発に、多額のお金がつぎ込まれたからです。

 話がそれましたが、纏向遺跡という大規模な都市国家建設にも同じように技術の進歩がありました。それまでの日本列島では、天然の水田適地でしか農業が行われていなかった為に、人工的に農地を広げる機会がなく、土木工事の技術の進歩がありませんでした。そんな中で、土地を平坦にして水路を引く、という水田開発にもつながる土木工事が計画的に大規模に行われました。すなわち、土木工事の大きな需要が生じたのです。それが纏向遺跡です。

 そんな纏向遺跡から生まれた最先端の土木工事技術が、水田開発や古墳造成に生かされました。残念ながら水田開発については纏向遺跡からの発見がないので考察できませんが、もう一方の古墳造成は注目すべきです。

 古墳時代の先駆けとなった平地型の大型前方後円墳は、この地から始まっています。弥生時代までは小規模な墳丘墓しかなかった近畿地方に、突如として100メートルを超える古墳が出現したのです。

 具体的には、この地に現在も存在している箸墓古墳や黒塚古墳です。100メートル級の前方後円墳で、出土した土器類から4世紀の築造とされており、古墳時代の先駆けとなる出現期古墳と呼ばれています。

これは丁度、纏向遺跡という都市計画が頓挫した時代とも重なっています。

 古墳時代の中心地は、5世紀に500メートルを超える巨大古墳が造成された河内平野の方である事に疑いようはありませんが、先駆けとなったのは奈良盆地南東部のこのエリアでした。それは取りも直さず、纏向という場所での都市建設において、土木工事技術が飛躍的に向上した事によるものです。

 大型の古墳がどうして鍵穴のような前方後円墳という形だったのか? という疑問に対しては、様々な説が唱えられています。真相は謎ですが、確実に一つだけ言える事は、都市建設の為に周辺諸国からの人々の流入があった事が要因です。纏向遺跡から出土している土器の15%は近畿地方以外のものというデータがありますので、周辺の先進地域から近畿地方への文明の伝来があったのは確実です。文化的に遅れていた近畿地方には、弥生時代には大型の墳丘墓はありませんでした。その時代に大型のお墓があったのは、吉備の国の楯築遺跡や、出雲の西谷5号墳、丹後の日吉ケ丘遺跡、越前の南春日山墳丘墓、といった50メートル級の墳丘墓でした。また、私が卑弥呼の墓と比定している丸山古墳は100メートルの円墳です。

これらの文明先進地域からの人々も纏向遺跡の建設に携わっていましたので、この地で文化が融合して大型古墳の造成へと繋がって行ったのでしょう。

 前方後円墳という形の起源もまた、文化の融合だと推測します。日本海側の各地では、3世紀にはすでに山の形を利用した小型の前方後円墳が作られています。そういう文化を持った人々、すなわち文明の進んだ日本海側の人々が、文明の遅れた近畿地方に集まり、それによって化学反応が起こって、平地型の前方後円墳という新たな文化が誕生したのです。

 このように、大型古墳を造成するという文化は、土木工事技術の進化と、先進地域からの文化の融合という二つの要素によって、纏向遺跡エリアから始まりました。さらにこの時代以降、日本列島全域に大型の前方後円墳を築造する文化が広がって行きます。

 この現象を旧来型の古代史研究家たちは、「ヤマト王権の支配の広がりである」、としていますが、私は全く同意しません。それは、文化の広がりが一方通行だったからです。近畿地方から大型前方後円墳が日本列島のみならず、朝鮮半島へも広がったものの、逆に周辺諸国からの文化の流入が途絶えてしまっているからです。近畿地方の支配が広がったのであれば、文化の流れは双方向であって然るべきですが、それが無かったのです。つまり近畿地方は、巨大古墳の造成へと単独で突っ走っていただけで、周辺諸国からは孤立していたという事です。

 纏向遺跡の最大の功績は、日本で初めて大規模な都市国家を建設しようとした事です。計画自体は頓挫したものの、進化した土木工事技術や平地型の前方後円墳という独自の文化は残りました。

 そういった技術や文化を持って、人々は日本列島全域に広がって行くことになります。それは、計画の頓挫で都市が完成しなかった為に、奈良盆地での新世界の夢が絶たれた人々が故郷に帰って行ったからであり、あるいは水田バブルに沸く河内平野での権力抗争に敗れ去った者が周辺諸国へと散らばって行ったからでもありました。

 奈良盆地南部では水田地帯が広がりを見せる事はなく、近畿地方の中心は河内平野となり、百舌鳥古墳群にみられるような500メートル級の前方後円墳が出現します。この地域を中心とする邪馬台国のライバル・狗奴国は、水田バブルに浮かれて、無意味な巨大古墳の造成にうつつを抜かす事になってしまいました。

 一方で近畿地方を去った人々は、纏向遺跡で培った最新の土木技術を持って農地の開拓開墾を行ない、各地の国力が増強されたでしょうし、同時に前方後円墳という文化も広がって行ったのです。

 しかしながら、近畿地方への新たな文化の流入は滞ってしまいました。古墳造成に必要な馬の伝来はあったものの、それ以外の文化の流入はほとんど無くなってしまいました。

 つまり、大和王権の支配が全国に及んだ訳ではなく、近畿地方が孤立して行ったという事です。

 ここで中国史書との関係性を見てみましょう。

魏志倭人伝に記された倭国と魏の国との交流は、3世紀中ごろまでです。卑弥呼の宗女・壹与が朝貢したのが最後となっています。この次に中国史書に倭国が登場するのは、150年後の宋書倭国伝となります。これはいわゆる「倭の五王」と呼ばれる五代に渡る王様による朝貢の記録です。魏志倭人伝から宋書まで150年間の交流の記録は全くありません。また倭の五王にしても、ヤマト王権の天皇だった可能性はありません。

 文明後進地域だった近畿地方に中国大陸からの先進文化が入ってくるようになるのは、ずっと後になります。五経博士と呼ばれる儒教の教えに通じた人材の招聘、仏教の導入、さらには様々な文物が中国大陸からもたらされたのは、6世紀に入ってからです。

 巨大古墳の造営されていた4世紀~5世紀には、近畿地方は孤立し文明の進歩か完全にストップしていた事は、明らかでしょう。

前方後円墳の築造で、一見華やかに見える近畿地方の古墳時代ですが、その実は、水田バブルに浮かれていた空虚なものだった様子が垣間見られます。

 いかがでしたか?

4世紀に突然消滅した計画都市・纏向遺跡。奈良盆地に新世界を建設する事には失敗したものの、後の時代に大きな影響を与えました。大型の古墳の造成が可能になったという事は、大規模な土木工事が可能になったという事。前方後円墳が日本全国に広がったという事は、最先端の土木工事技術が日本全国に広がったという事。さらにはこの技術を元に、農地の開拓開墾が盛んになったという事です。6世紀から始まるヤマト王権の技術的な礎は、この時期に培われた事は間違いないでしょう。