こんにちは、八俣遠呂智です。
なぜ邪馬台国は歴史から消されたのでしょうか?
その理由は、奈良時代の記紀編纂時の権力者・藤原氏一族の思惑を抜きには語れません。
前回は、藤原氏の出自が鹿島神宮の宮司だったという説を紹介しました。この説にはかなりの無理があります。しかしながら、千数百年に渡って大和朝廷の最高ポストに居座り続けた藤原氏一族の、したたかさの原点のように思えます。
今回は、邪馬台国とは時代が離れてしまいますが、平安時代に藤原氏が鹿島神宮に忖度した経緯を推測します。
藤原氏一族の出自を示す文献史料に、平安時代後期に記された大鏡があります。
藤原道長が栄華を極めた平安時代の歴史物語で、その中に藤原氏の祖先が鹿島神宮の宮司だったという記述があるのです。この説の致命的な欠陥は、時代乖離が甚だしい事です。
大鏡(おおかがみ)は、11世紀の書物です。藤原道長よりも100年以上も後ですし、中臣鎌足よりも400年以上も後に書かれた歴史書です。さらに、10代前の中臣烏賊津 (なかとみのいかつ)よりも900年も後という事になります。ただし、藤原氏一族もこの内容を認めていた節があります。それは、奈良県の春日大社に関東地方の鹿島神宮や香取神宮の神が祀られていることからも分かります。
ではなぜ、藤原氏一族は関東地方が出自であると容認したのでしょうか?
古代の関東地方は、北陸地方や東北地方を含めた蝦夷地として一括りにされており、ほとんど古代史の主役としては登場しない地域でした。それは決して文明後進地域だったからではなく、むしろヤマト王権という西日本勢力と敵対していたからだと推測します。実際に、関東地方の古墳時代の遺跡には目を見張るものがあり、古墳の数や規模でも西日本に劣るものではありません。
平安時代に入ると、日本列島は隅々にまでヤマト王権の支配が及びました。しかしながら、関東地方だけは思うようにコントロール出来ていなかった節があります。
10世紀に入ると、平将門の乱が勃発しています。これは一応は鎮圧できました。その後に、藤原道長(966-1028)が最高権力者として栄華を極めました。
しかし関東地方の勢力については、常に爆弾を抱えているような状況でした。道長亡き後、強力な指導者を失った藤原氏一族は、関東地方を懐柔する為に、「自らの出身地は鹿島神宮だ」と、忖度し、擦り寄って行かざるを得なかったのです。
大鏡に記されている藤原氏の系譜は、平安時代末期だからこその、世渡り上手な歴史書だったのです。
奈良時代頃までの関東地方は、残念ながら天然の水田適地には恵まれなかった為に、稲作による人口爆発が起こるのは、西日本よりもずっと遅れていました。平野の面積こそ広いものの、弥生時代から古墳時代に掛けての人口は僅かなものだったと推測します。地学上、大雑把な括りではありますが、現在の群馬県や栃木県は黒ボク土地帯で稲作には不向き、茨城県、千葉県、埼玉県、東京都、神奈川県エリアは、湿地帯や海の底でした。
そんな中で、時代を経るごとに湿地帯だった地域が良好な水田適地へと変貌して、ついに人口爆発が起こったのでした。それが鹿島神宮のある常陸の国や、香取神宮のある下総の国です。現在の茨城県や千葉県北部の地域です。
常陸の国を中心とする関東地方に国力が付いた証拠が、平安時代の書物に明確な数値として残っています。
延喜式という平安時代中期に編纂された律令の施行細則があるのですが、その中に農業生産の目安となる数量が記されています。
公出挙稲(くすいことう)という国家が行なった稲の強制貸し付けで、地域ごとの束数が記されています。農業生産高とは直接結びつきませんが、農業規模を計るには日本で最も古い記録とされています。
その中で最も数値が大きいのは、常陸の国の180万束、次いで越前の国の170万束、肥後の国の160万束と続きます。
これまでの動画で何度も指摘しました通り、越前の国の福井平野や、肥後の国の菊池盆地は、淡水湖跡の沖積平野という古代からの天然の水田適地でしたので、平安時代の農業生産にもその傾向が残っています。
一方で常陸の国は、広大な平地はあったものの、そのほとんどは古代には湿地帯でした。それが時を経るごとに陸地化してゆき、広大な水田適地へと変貌して行ったのです。
平安時代には日本列島で有数の農業生産が得られるようになり、関東地方に人口爆発を引き起こした事は間違いないでしょう。
平将門の乱という一見すると唐突もない反乱のように思えますが、ここでもやはり農業生産とは切っても切れない関係があったという事です。元々水田適地が少なくて国力の無かった関東地方が、湿地帯が干上がって稲作地帯へと変貌する事によって、一気に日本列島の主役へと躍り出た。それが平安時代です。平将門が地盤としていたのは、まさに農業生産が飛躍的に伸びた常陸の国や下総の国でした。
平将門の乱は、一人の偉大な人物が出現したから? というよりも、その当時の関東地方の国力が増強していた背景を考えれば、遅かれ早かれ、近畿地方の大和王権に反旗を翻す人物が現れるのは、必然的な流れだったと言えます。
さらに次の時代に源頼朝が鎌倉の地に幕府を開いたのは、関東地方の勢力を抑え込む為。あるいは関東地方の利権を丸ごと手に入れる為。だった事も重要な要因だったのでしょう。
藤原氏一族のルーツの話に戻ります。
平安時代後期の大鏡に記された鹿島神宮宮司説は、このような関東地方の勢力拡大が一因になっていたと考えられます。
平将門の乱を鎮圧した後、藤原道長によるこの世の春を謳歌する栄華の時代を迎えます。しかし、強大な勢力にのし上がってきた関東地方は、いつ再び反乱を起こしてもおかしくない存在でした。
そして藤原道長が亡くなった後、一族は存亡の危機に瀕します。特に関東地方の勢力を抑え込む手段に苦慮したのではないでしょうか?
そこで持ち出した奇策が、藤原氏のルーツを鹿島神宮であるとしたのです。大鏡でその内容を記して、奈良県の春日大社には、常陸の国の一宮の鹿島神宮と、下総の国の一宮の香取神宮を祀り上げました。しかも、日本書紀に記されている中臣氏の始祖・天児屋命(あめのこやねのみこと)よりも格上に祀ったのでした。
明らかに藤原氏一族が、常陸や下総という関東地方の強力な勢力に忖度したと言えるのではないでしょうか?
関東勢力にとっても悪い気はしなかったでしょう。大和王権の最重要ポストの一族が、自らの土地が出身地であり、しかも春日大社の最上位に鹿島神宮や香取神宮が祀られた訳ですから。
この事例は、藤原氏一族のしたたかさ、世渡り上手さを端的に物語っています。
いつの時代も、強力な新興勢力が現れると、必ず娘を嫁がせて親戚関係を結んでいます。争いを好まず、巧みに強い者の懐に飛び込んで、ご機嫌伺いをしているのです。これは、古代・中世・近世に限らず、現代社会でも政界・財界・経済界の大物とは、ちゃっかりと親戚関係を結んで、水面下で日本という国を操っています。
こういう言い方をすると、藤原氏一族が悪者のように思えますが、決してそうではありません。天皇家が世界一古くからある王族でいられた事だけでなく、日本という国が、世界で最も平和な国家であることは、藤原氏一族のこうしたやり方、すなわち強力な敵に対して、巧みに懐柔してきた功績によるものだと思えます。
また、藤原氏に限らず日本国民全体でも同じことが言えるでしょう。白黒はっきりさせず、グレーな状態で穏便に済ませる気質は、一見優柔不断に思えますが、平和な世の中を継続するには、必ず必要な要素だと思えます。
いかがでしたか?
今回は話が随分飛躍してしまいましたね? 何が言いたかったかと言うと、藤原氏一族のルーツは鹿島神宮の宮司ではないという事です。そして、藤原氏の手法こそが、日本人の原点である、と言いたかったのです。
また、水田適地という視点からは、改めて強力な勢力の出現との相関が見えてきましたね? 古代には、邪馬台国・越前から継体天皇が出現し、平安時代には関東から平将門、安土桃山時代には、尾張から織田信長・豊臣秀吉・徳川家康。そして現代では越後の国から田中角栄・・・。これはちょっと違うかな?