馬の伝播と最古の文字入り刀剣 江田船山古墳 稲荷山古墳

 こんにちは、八俣遠呂智です。

藤原氏の祖先が日向の国の馬飼職人であり、さらに新羅からの渡来人だったとすれば?

ファンタジーとして片づけられてきた日本神話との一致が見られます。天照大神の高天原、天孫降臨した高千穂、神武東征、さらには須佐之男命の八俣遠呂智退治。などから、古代日本の広域的な勢力図が見えてきます。

 今回は、考古学的な史料(最古の文字入り刀剣)も馬飼職人・藤原氏のルーツと関連している事を示します。

 これまでの藤原氏シリーズで、藤原氏の祖先は日向の国の馬飼職人であり、5世紀頃に近畿地方へ移動して来た歴史こそが、神武東征の元ネタであるとの説を唱えました。さらにもっと前の先祖は、朝鮮半島の新羅の馬飼職人であり、日向の国・高千穂での天孫降臨した天児屋命や、出雲の国で八俣遠呂智を退治した須佐之男命、という高天原からやって来た神々との繋がりを指摘しました。要は、日本神話の神々は全て藤原氏一族の歴史を元に作られたという事です。

 これらはあくまでも、神話という文献のルーツ探る考察でしたので、考古学的な物証はありません。

しかしながら、新羅からの馬飼職人がやって来たと推測できるとても有名な考古学史料が二点あります。それらはまさに馬が日本列島に広がった時代の遺物です。

 時は5世紀。馬の伝播が日本列島全域に広がりつつあった時代です。

 日本で最も古い文字が刻まれた刀剣が、2ヶ所から出土しています。

熊本県和水町の江田船山古墳と、埼玉県行田市の稲荷山古墳からそれぞれ出土している刀剣です。

江田船山古墳からは、75文字の銀象嵌(ぎんぞうがん)銘文が表されている鉄の刀をはじめとして、多くの貴金属類や宝石類が出土しています。刀に削られていた文字は、第18代反正天皇の諱であるとされていましたが、近年は第21代雄略天皇の諱であるという説もあります。これらの説には、かなりのこじ付け感がありますので、私は支持しません。但し、時代的には5世紀の物であり、日本最古の本格的な記録文書である事に異議はありません。

 一方、稲荷山古墳からは、115文字の金象嵌(きんぞうがん)の銘文が表されている鉄の刀をはじめとして、同じように多くの貴金属類や宝石類が出土しています。刀に削られていた文字は、第21代雄略天皇の諱や、その一族が記されているという説があります。これについても、私は支持しません。詳しくは、以前の動画「万世一系(6)関東の大王 雄略天皇」にて述べていますので、ご参照下さい。

 もちろん、江田船山古墳と同じように、日本最古級の文字が刻まれた刀剣であるという事実には賛同します。

 熊本県と埼玉県という、遠く離れた2ヶ所から出土した日本最古の文字が刻まれた刀。こんなに離れているのに、同じ時代の同じような出土品があるのは不思議ですよね?

 この謎について、とかく古代史研究家たちは、大和王権と結びつけたがります。東西日本の古墳から同じような王様の名前を記した刀剣が出土したことは、ヤマト王権の支配が広域に及んでいたと、結論付けたがるのです。しかし、これはおかしいでしょう?

 仮にもし、5世紀頃に大和王権が支配が広がって行ったのならば、近畿地方にこそ文字の入った刀剣がたくさん出土して然るべきでしょう? 中心地な訳ですから。九州や関東という遠隔地になればなるほど、出土数が減って行って然るべきです。ところが、近畿地方での出土は全くありません。九州と関東でしか出土がないのです。つまりこれらの刀剣は、大和王権とは全く関係が無いという事を、如実に物語っているのです。

 ではどうして九州と関東という遠く離れた2ヶ所から同じような刀剣が発見されたのでしょうか?

私はこれまで、全く関係の無い王族がそれぞれの地に誕生していた、と考えていました。何の結びつきも見えなかったからです。ところが、藤原氏のルーツを辿って行くと、これらの地に存在する強固な関係が見えてきたのです。

 そしてそれは大和王権とは無関係で、近畿地方が完全に孤立していたという当時の状況とも一致します。

 藤原氏のルーツを探る中で、3世紀頃に高句麗の圧力によっ朝鮮半島を追い出された新羅の馬飼職人たちの存在を指摘しました。彼らの中で、一部の者は北部九州に流れ着き、また一部の者は日本海沿岸地域に流れ着きました。そして、北部九州に流れ着いた馬飼職人は日向の国・宮崎県という馬の繁殖適地に辿り着き、日本海沿岸地域に流れ着いた馬飼職人は北関東という馬の繁殖適地に辿り着きました。

 もうお分かりですね?

九州にしても関東にしても、どちらも新羅という馬の繁殖技術を持った地域を根源に持っているという事です。

江田船山古墳は熊本県ではありますが、宮崎県と同じように古墳からの馬具類の出土が多い地域です。もちろんこの古墳からも大量の馬具類が見つかっています。日向の国と同じ系統を持つ馬飼集団がこの地に存在していたと推測するに、無理はないでしょう。

一方、稲荷山古墳からも大量の馬具類が見つかっていますし、高句麗からの渡来人伝説の多い地域です。九州とは別系統の馬飼集団かも知れませんが、やはり朝鮮半島の新羅・高句麗の流れを組む集団が4世紀~5世紀という同じ時期にやって来たのは間違いありません。

 そして、2つの古墳に見られる同じような刀剣は、新羅に起源を持つ馬飼職人たちによって持ち込まれた、という事です。

 その時期、つまり5世紀の近畿地方はどうだったかというと、前回の動画で考察しました通り、文化の流入が遮断されていました。巨大古墳の造成にうつつを抜かしていた近畿地方は、前方後円墳の文化が周辺地域に広がって行ったものの、周辺地域から文化が入って来ることは無くなってしまい、孤立していました。

 これは、3世紀の邪馬台国の時代から続く、日本海側・女王國と、近畿・狗奴国との対立の影響もあった事でしょう。中国大陸からの最新技術が近畿地方へ入って行く事はなく、文明後進地域となっていたのです。馬飼の技術もその一つでした。

九州や関東で花開いた馬飼の技術ですが、近畿地方では100年ほど遅れて、日向の国から瀬戸内海航路でやって来た馬飼集団によって、ようやく伝播したという事です。これが神武東征の元ネタですね?

 これらのように、熊本県で見つかった最古の文字が刻まれた刀剣と、埼玉県で見つかった同じような刀剣。

一見無関係に見える両者ですが、朝鮮半島・新羅からの馬飼職人の移動、という点からの共通点が見えてきます。

それぞれの刀剣に記された文字は、反正天皇や雄略天皇の諱であるという説があります。どちらの天皇も、考古学的な根拠の無い神話の天皇ですが、もし刀剣の銘が彼らを根拠にしているとすれば?

それは、彼らが新羅にルーツを持つ藤原氏の祖先であり、藤原氏の系譜を元に創作された人物だという事になるでしょう。日本書紀に記された神話の天皇たちもまた、藤原氏の先祖をモデルにした可能性が出てきます。

 いかがでしたか?

古代史研究、特に古墳時代以降の日本の歴史は、近畿地方を中心に回っていると考える人が多数派ですね?

巨大古墳の存在を目の当たりにすれば、誰しもそう思ってしまうでしょう。しかしそういった先入観が、真の古代史解明の妨げになっているように思います。古墳時代前期には、ヤマト王権の支配がどうとかいう前に、ヤマト王権自体も存在していなかったのです。今回の九州と関東の刀剣からは、近畿地方は孤立した後進地域だった姿があらためて浮かび上がりましたね? 大和王権が成立したのは6世紀に入ってからの事です。