記録に残る日本最古の超大国。それは、今から1800年前の中国史書・魏志倭人伝に記されている女王の都・邪馬台国です。しかしその記述のあいまいさから、場所がどこにあったかは誰にも分かりません。300年前の江戸時代から始まった比定地論争は、未だに決着を見ていないのです。
今回は、弥生時代という日本列島に人口爆発をもたらした食糧事情から、超大国が出現したメカニズムを解き明かして行きます。
魏志倭人伝から読み取れる邪馬台国のヒントは、たったの二つです。
一つは、朝鮮半島の帯方郡からの行路。そしてもう一つは、邪馬台国が七萬餘戸という超大国だという記述です。
この内、行路についてはいかようにも解釈できる内容の為に、九州のような超大国が出現するはずの無い地域であっても、簡単に曲解されてしまうという問題点がありました。
一方で、七萬餘戸という当時としてはとても大きな国家だったという記述については、ある程度の絞り込みが可能です。
それは、人口爆発が起こった弥生時代のメカニズムを、根本的な部分から冷静に解き明かしてゆけば良いのです。
邪馬台国の出現を考察する前に、「弥生時代とは何か?」と言う点から考えてみましょう。
弥生時代の定義は、日本列島に水田稲作が伝来してからの時代、というのが一般的です。これに従えば佐賀県の菜畑遺跡から見つかった水田遺構の、紀元前9世紀~となります。しかしそれはあくまでも水田稲作が始まっただけの話で、日本列島全域に広がりを見せたわけではありません。
弥生時代をより正確に定義するならば、水田稲作が日本列島全域に伝播して人口爆発が起こった時代とする方が理に適います。
すると、北部九州の直方平野で始まった大規模な水田稲作が、遠賀川式土器と共に日本列島全域に広がって行った紀元前3世紀頃からが、弥生時代となります。
水田稲作は、生産効率が非常に高い農業で強力な人口扶養力を持っている反面、畑作農業のように手っ取り早く耕作が行なえるような農業形態ではありません。
それは水田を作るには、開墾・整地・灌漑などの大きな手間が掛かる為です。牛も馬もいなかった時代に、人工的に簡単に増やして行けたわけではありません。
では、どのような場所で大規模な水田稲作が行われるようになったのでしょうか?
丘陵地に見られる棚田のような、ちっちゃな田んぼを細々と作った地域でしょうか?
もちろん違いますね。こまごまと畔を作らなければならない場所は、非常に手間が掛かりますし、大雨が降ればあっさりと壊されてしまいます。
古代に於いて大規模水田稲作が行われたのは、開墾・整地・灌漑の必要の無い、天然の水田適地だけです。
邪馬台国という、弥生時代に七萬餘戸もの人々を養った超大国を見つけるには、まず最初に広大な天然の水田適地があった場所を見つけ出すことが、最も重要です。
B: ちょっと、待って?
A: なっ、なに?
B: 魏志倭人伝には邪馬台国は七萬餘戸って書いてあるけど、そんな数字、信用していいのかなぁ?
A: そうですね? 一戸あたり五人暮らしていたとすれば35万人もの人々が生活していた事になりますからね。弥生時代の食糧事情の研究から、その当時の日本列島の総人口は、せいぜい50万人程度だったとされていますから、ちょっと多すぎですね。本当に戸数を数えたわけではないと思いますよぉ?
B: じゃあ、この数字、信用しちゃいけないでしょう?
A: 数字自体は信用できないけれど、ほかの国の数字との比較はいいんじゃないかしら?
たとえば大きな国だけを見てみると、奴国は二万戸、投馬国は五万戸、邪馬台国は七万戸、ですから邪馬台国は奴国の3.5倍もの人口がいたと推測してもいいと思います。
それにそのほかの小さな国々は、みんな1万戸にも満たないので、邪馬台国は超大国だったと考えていいでしょう。
B: なるほど? あと、水田稲作地域じゃなきゃダメなの? 海産物の狩猟とか、畑作農業とかで、超大国になれた可能性ってないのかなぁ?
A: 世界の四大文明と呼ばれる地域は、畑作農業です。でもそれは特殊な条件が揃っていたから出来た事で、日本列島の気候や地形では不可能です。詳しくは、以前に作った動画で説明しているので、参考にしてねぇ。
あと、もし狩猟とか、畑作農業とかで、超大国が生まれていたとすれば、弥生時代よりもずっとずっと昔の縄文時代から超大国があったはずでしょう?
B: そっかー? 縄文時代って食料事情が悪くて、日本列島全体でも5万人くらいしか人がいなかったんですものねぇ? 狩猟や畑作では、邪馬台国は無理ですねぇ。
A: そうよ。古代国家の成立を考えるには、農業や穀物の生産性から考えるのが基本中の基本。イロハのイなのです。魏志倭人伝をいくら読み込んだところで、そしてその内容を都合よく解釈したところで、何の問題解決にもなりません。文献史学という机上の空論に惑わされていけません。
B: はい。かしこまりました。
話を元に戻します。
超大国を見つけるには、まず広大な天然の水田適地があった場所を見つけ出すことが最も重要です。魏志倭人伝の描写からも、水田適地のある場所とない場所との差が明らかに描かれています。それは、壱岐と対馬の記述です。どちらも玄界灘に浮かぶ小島ですが、両者の面積を比較すると対馬の方が遥かに大きく、壱岐の約4倍もの面積があります。
ところが倭人伝に記されている戸数では、壱岐が3000戸なのに対して、対馬は1000戸しかありません。この理由は明らかでしょう。壱岐には、原の辻遺跡という大規模拠点集落がありました。これは天然の水田適地が存在していたからです。それに対して、対馬では天然の水田適地は存在しません。対馬の状況は、狩猟や畑作に頼っていた為に、多くの人口を賄えるだけの食糧を確保できなかったのです。
これに付随するように、対馬では目ぼしい弥生遺跡はほとんどありません。
この比較からみても、水田適地がある場所にこそ大きな国家が成立した事の根拠になるでしょう。海産物の狩猟や畑作だけの対馬で国家が成立していたならば、縄文時代には日本列島のどこかで巨大国家が成立していたはずです。
このように、日本最古の超大国である邪馬台国は、大規模な天然の水田適地が存在していた場所でなければならない、という事になります。
次回からは、具体的にどのような場所が天然の水田適地であるかを示し、日本列島においてそれに適合する場所を示して行きます。
魏志倭人伝から読み取れる邪馬台国のヒントは、たったの二つです。行程と七萬餘戸という戸数のみです。それ以外の記述は、あくまでも倭国全般に関する事の記述でしかありません。いくら絹が生産されていようが、いくら朱丹が産出していようが、いくら南国の風俗習慣があろうが、それらは倭国の一部だったという証明にはなっても、女王国の都・邪馬台国だという証明にはなっていません。
次回は、七萬餘戸という超大国が存在したであろう巨大な天然の水田適地を探して行きます。