日本最古の超大国③

 記録に残る日本最古の超大国。邪馬台国の場所は未だに分かっていません。魏志倭人伝にあるヒントはたったの二つ。朝鮮半島からの行路と、七萬餘戸という超大国だったという事だけです。このシリーズでは、弥生時代という日本列島に人口爆発をもたらした食糧事情から、超大国が出現したメカニズムを解き明かして行きます。前回は、土地の成り立ちから、近畿地方が日本の中心となった理由を示しました。今回は、土地の構造と、邪馬台国の場所を推定します。

  弥生時代の国家が成立するには、天然の水田適地がある場所というのは自明です。具体的には、

・河川による沖積平野

・淡水湖跡の沖積平野

という場所がそれに相当します。これらの構造を断面図で示して行きます。

 まず河川による沖積平野の場合です。山々からの河川の堆積物によって、下流部には沖積層が積みあがって行きます。この沖積層の表面はまず湿地帯となります。そして、水が引いて草原地帯となり、やがて密林地帯へと変貌して行きます。

  この中で、水田稲作に適した土地は、湿地帯から草原地帯へ変貌した場所です。密林地帯を開墾する必要がなく、平坦で水はけの悪い土壌ですので、こまごまと畔をつくる必要もなく、自然の氾濫作用に任せれば、水田となります。天然の水田適地という事です。

 しかし広大な平野であっても、このような水田適地は狭く、沿岸部だけに限られていました。平野のほとんどは密林地帯でしたので、そこを水田として利用するにも、牛や馬がいない時代ですから、開拓・開墾には大きな労力が必要でした。その為に、ほとんど活用される事はなく、せいぜい縄文時代から続いていた生産効率の悪い焼畑農業や、木の実拾いが行われた程度でした。つまり、大規模な水田稲作農業は無理という事です。

 この成り立ちによって出来た平野の典型が、北部九州の筑紫平野です。筑後川などの大きな川の沖積作用によって形成された平野です。弥生時代には、まだ現代のような形にはなっておらず、海岸線は久留米市を中心として、北は吉野ヶ里遺跡、南は八女・山門を結ぶ線上でした。この地域には古代から大きな豪族が出現しています。その基盤としての穀倉地帯だった事は想像できますが、水田適地の面積は限られていましたので、邪馬台国のような超大国が出現できるだけの規模ではありませんでした。

 一方、筑後川上流の甘木朝倉地域では、その当時はまだ密林地帯でしたので、水田適地は少なく、下流域ほどの豪族の出現はありませんでした。

 筑紫平野のほかにも、同じような構造の平野には、関東平野、濃尾平野、仙台平野などがあります。いずれも、現代では大きな穀倉地帯ではありますが、弥生時代にはまだまだ未開の土地でしたので、大きな勢力が出現するだけの基盤はありませんでした。現代に広い平野があればいい、というものではありません。

 従いまして弥生時代において、これらの平野から邪馬台国のような超大国が出現した可能性はありません。

 一方、淡水湖跡の沖積平野の場合です。

 これは、湖や沼が干上がって底の部分が表出した沖積平野で、日本海側の平野や、山々に囲まれた盆地に多く見られる平地構造です。

 火山からの溶岩や、海流による砂礫の堆積によって、水の出口が塞がれた場合、湖が形成されます。そして、長い年月を掛けて湖の底に沖積層が形成されます。この水が抜けた後には、べったりと平坦で水はけの悪い、天然の水田適地になります。この水が抜けた時期が、水田稲作が伝来した後であれば、密林地帯を開墾する必要もなく、そのまま水田稲作農業に利用される事になります。

 湖の規模が大きければ大きいほど、広大な平野が広がりますので、河川による沖積平野とは比べ物にならないくらい巨大なものとなります。

 一つの例として、大きな湖が存在していた出雲平野の成り立ちを示します。

 8000年前の縄文海進時には、この場所の標高の低かったエリアは海の底へ沈んでしまい、半島部分は島として分離、あるいは湾のような形状となっていました。その時期に対馬海流の作用によって、湾の出口に砂礫層が積み上がります。一方で、湾の底には山々から運ばれてくる粒子が細かく栄養たっぷりの土が積みあがって行きます。

 やがて縄文海進が終わり、海面が徐々に下がって行きましたが、水の出口は塞がれていた為に、湾があった場所は湖として残ります。この湖の底では、さらに数千年かけて山々からの栄養たっぷりの堆積物が積もって行きます。

 やがて湖の水は引き、湖底だった場所が平野として現れてきます。とても平坦で水はけが悪く、水田稲作には最高の土地、というだけでなく、草木が生える前なので開墾の必要のない天然の水田適地です。

 このような成り立ちの水田適地には、直方平野、出雲平野、福井平野、新潟平野、などがありますが、これらすべてが邪馬台国時代に水田適地だったかというと、必ずしもそうではありません。

 その理由は、平野が水没してしまう事の危険性が高い事や、水が引いた時代が弥生時代ではなかった事、などがあります。

 直方平野は水没を繰り返していましたし、出雲平野は現代の四分の三が水没していました。新潟平野に至っては、弥生時代にはほぼすべて水没していました。

B: ちょっと、待って?

 

A: なっ、なに?

 

B: 直方平野って、どうして水没を繰り返していたんですか? ほかの平野とは何が違うんですか?

 

A: それは、海流速度の問題です。日本海側各地の平野は、ほとんど同じ構造なのですが、直方平野の河口を流れる対馬海流の速度が、ほかの地域とは比べ物にならないくらい速いんです。

 

B: 確かに海峡で潮の流れが速くなるのは分かりますが、それと水没と、どう関係しているんですか?

 

A: それは、河口に積みあがる砂礫層の問題です。直方平野には遠賀川という大きな川が流れていますが、その河口域は対馬海流の速度が速い為に、すぐに砂礫が積みあがって塞がれてしまうんです。その為に、なんども水没を繰り返したってわけです。

もちろん他の平野でも同じような事は起こっていますが、玄界灘を流れる対馬海流は速度の違いから、水没が頻繁に起こっていたようなのです。

 

B: なるほどーー。とこで、遠賀川って、あの遠賀川ですかぁ?

 

A: そうよ、あの遠賀川よ。弥生時代初期の土器で有名ですね。この地で水田稲作文化の原型が形作られて、日本列島全域にその文化が広がったとされていますね。まさに広大な水田適地だったからこそ起こった文化だったのでしょう。

 

B: もし、直方平野の水没が少なかったら、どうなっていたのでしょうねぇ?

 

A: 多分、日本の中心地になっていたんじゃないかしら? だって、朝鮮半島に近いっていう地の利がある上に、水田稲作で人口爆発が起こっていたなら、間違いなく邪馬台国だったと思いますよ。

九州で残念だったのは、天然の広大な水田適地が少ないことと、直方平野があったのにしょっちゅう水没していた事かしら?

 

B: 直方平野、なんだか、かわいそー。

 話を元に戻します。

弥生時代におけるこれらの水田適地の中で、どの地域が最も稲作に適していたかを考察します。

先に述べましたように、筑紫平野・濃尾平野・関東平野のような河川による沖積平野は、弥生時代には水田適地は僅かでした。

 日本海側の淡水湖跡地では、直方平野は洪水が頻発しており、出雲平野や新潟平野は、弥生時代にはまだほとんどが湖の底でした。

 近畿地方の河内平野や奈良盆地も、弥生時代にはまだ湖が残っていました。

河内平野に広大な水田が広がったのは古墳時代からで、奈良盆地に水田が広がったのは飛鳥時代になってからです。

 では、弥生時代末期に広大な水田が広がっていたのは、どこでしょうか?

可能性としては、北陸の福井平野と、前回示しました九州の水田適地・菊池盆地が残ります。これらは弥生時代末期の出土品の分布から、湖の80%以上が引いていたと推測されています。どちらも現在ではそれほど大きな平野ではありませんが、当時としては、最大規模の水田稲作地帯です。日本で最初に人口爆発が起こった、すなわち邪馬台国だったのは、このうちのどちらかです。

次回は、邪馬台国の場所を特定して行きます。

 「邪馬台国は巨大国家だった」、「邪馬台国は水田稲作地帯だった」、という事に異議を唱える人もいるでしょう。しかし、魏志倭人伝に記された「七萬餘戸」が正確な数字では無いにしても、邪馬台国が当時の日本列島での最大の国家だったと推定するに、無理はないと思います。また、縄文時代から弥生時代に移行して、水田稲作によって人口爆発が起こった事を考慮すれば、邪馬台国が水田稲作地帯だったのは当然ではないでしょうか。