日本最古の超大国⑤

 記録に残る日本最古の超大国。邪馬台国の場所は広大な天然の水田適地があった場所です。大規模稲作によって日本列島で初めて人口爆発が起こり、七萬餘戸もの超大国が出現したのです。

 前回までに、邪馬台国が誕生した場所を水田適地から推定しました。今回は、その地が具体的にどのような経緯で形作られたか、そして気象条件も含めて、日本最大の水田適地を特定します。その場所こそが邪馬台国です。

 邪馬台国は、七萬餘戸もの超大国ですので、大規模な水田稲作が行われていた場所以外には考えられません。

前回までに、天然の水田適地が存在し、弥生時代に大規模に水田稲作が行われていた場所を特定しました。九州地方の菊池盆地と、北陸地方の福井平野です。

 このうち、菊池盆地については、魏志倭人伝の行路の記述と一致しない、大和王権との連続性がみられない、などの理由で候補から落としました。一方で福井平野の方は、実在性の確実な最古の天皇・継体天皇が出現している事、古代王族の存在を示す出土品が多彩である事、魏志倭人伝の行路の記述と完全に一致している事、などの多くの根拠が存在することから、この地を邪馬台国であると断定しました。

 では、邪馬台国がいかにして天然の水田適地になったのかを、順を追って示して行きます。

まず現在の福井平野の様子です。東・南・西の三方向を山に囲まれて、北方向の日本海に向かって開けている形状をしています。この北方向にも、標高20メートル程度の低い丘陵地が存在していますので、平野でありながらも、盆地のような形状です。まさにこの形状に、天然の水田適地としての要素が満載していたのです。

 この福井平野の成り立ちを、縄文時代に遡って説明します。

 一万年前のこの地は、浅い谷のような地形でした。それが今から8000年ほど前の地球温暖化の時代に海面上昇が起こり、海の底へ沈んでしまいました。縄文時代に起こった海面上昇なので、一般には「縄文海進」と呼ばれています。

これによって、日本海とは海続きの「湾」のような形状となり、山々からの堆積物が海底に積みあがって行きます。また湾の出口部分には、外海に対馬海流が流れている為に、砂礫層が積みあがって行きました。

  やがて縄文海進は終わり、湾の水は引き始めます。ところが、湾の出口だった部分には砂礫層が積み上がってしまった為に、水の出口がなくなってしまいました。つまり、今度は湖として残ってしまったのです。この湖だった時代は長く、数千年にも及んだと見られます。この時期に、山々からの堆積物が湖の底にさらに積みあがって行きました。

  この図面は、福井平野の日本海に面する地域の拡大図です。現在は工業地帯になっている臨海部は、縄文海進時に対馬海流の作用によって積みあがった砂礫層です。これによって水の流れが堰き止められて、内陸部は湖となっていました。数千年掛けて湖の底には沖積層が積みあがって行きました。

 やがて湖の水は引き始め、陸地が現れてきます。そこはまだ木々が生い茂ってはいない状態でしたので開墾の必要はありませんでした。また、山々から運ばれて来た堆積物の積層によって成り立っていますので、粒子がとても細かい泥質で、栄養分がたっぷり含まれている上に、べったりと平坦な土地になっています。これは水田稲作には最高です。なぜならば、田んぼは水を保持しなければならないので、土質は水はけが悪くなければなりませんし、均等に水を張る必要がありますので水平であればあるほど良く、細々と畔を作る手間が掛からないからです。

 現代では、棚田という丘陵地によく見られる田んぼがありますが、これは膨大な手間暇が掛かりますし、耕作面積は僅かしか得られません。当然ながら田んぼは、平坦であればあるほど効率よく作れるのです。

B: ちょっと、待って?

 

A: なっ、なに?

 

B: 平べったい土地や、水はけの悪い土地って、危険なんじゃないんですか?

 

A: どうして?

 

B: だって、洪水が起きたら、水が引かなくなっちゃうじゃないですか?

 

A: 確かにそうですね。危険と隣り合わせです。でも、天然の水田適地って洪水も含めての事なのですよ。土地の成り立ちだけで言っているんじゃないんです。

 

B: えっ? 土地のほかに何か理由があるんですか?

 

A: それは、気候です。この気象データを見て下さい。太平洋側の名古屋市と、日本海側の福井市の降水量の年間データです。名古屋と福井とは距離的には150キロしか離れていないので、気温はほとんど同じです。ところが、降水量の変化は全く違います。名古屋は夏に多いけれども、福井は冬に多いでしょう?

 

B: ふむふむ。福井は冬に雪が降りますからね。

 

A: では、古代の水田稲作を行うには、どちらが良いと思いますか?

 

B: んーーー、分かんない。同じでしょう?

 

A: いいえ、明らかに違います。現代であれば、ダムが作られたり、灌漑が整備されたりと、治水工事が進んでいるから分からないでしょうが、弥生時代にそんなもの、あったと思いますか?

 

B: 無かったと思います。

 

A: あるわけないですよね? そんな中で水田稲作を行うと、明らかな差が出てくるのです。

名古屋のような太平洋側の場合には、降水量が多いのは、六月から十月頃です。これは夏から秋に掛けての、稲の生育時期や収穫時期という一番大事な時期です。そんな時期に、治水整備がなかった古代では、氾濫が起こってしまうのです。

 ところが福井のような日本海側の場合には、降水量が多いのは雪の降る冬の時期ですよね。氾濫が起こるとすれば、山々からの雪解け水が引き起こすので、春の時期となります。これは、田んぼに苗を植える、まさに水が欲しい時期です。そして、生育時期から収穫時期に掛けては、都合の良いことに水が引いて行ってくれるのです。

 

B: そっかー。気候を考えれば、太平洋側は水田稲作に適していないって事ですね? 日本海側は米どころっていうイメージがありますが、気候も重要な要素だったのですね?

 

A: そうよ。

A: だから邪馬台国の候補地として、九州の菊池盆地と北陸の福井平野を挙げましたが、これらを比較すると、土地の成り立ちは似通っているけれども、気候を考えれば明らかに福井平野に分があるって事なのです。

 

B: なるほどー。九州って、現代でも台風や洪水の被害が多いですから、古代の農業は悲惨だったのでしょうね?

 

A: そうね。九州に邪馬台国があったと思う人が多いですが、農業の視点からは全くお話になりません。古代史を考える上では、古文書だけでなく、農業やその背景にある地形・天候・海流など、いろんな事を考えないといけませんね。

 

B: はーい。

 話を元に戻します。

このように天然の水田適地は、土地の成り立ちの要素だけでなく、気候との関係も重要です。

 太平洋側では、田植えをする春先に水不足に悩まされ、夏から秋に掛けての豪雨被害にも悩まされます。

 一方で日本海側では、冬場の悪天候という、人間が生活する上では一見不利に思える天候ですが、水田稲作を行う上では、最高の気候です。

 ただし、新潟を含む北の地域では、こんどは温度の問題が発生してしまいます。気温が低すぎるのです。現代でこそ、東北や北海道で普通に水田稲作が行われていますが、稲は元々熱帯性の植物です。寒さには弱い植物です。

 弥生時代にはそれらの地域では、当然ながら、大きな収穫は得られなかったでしょう。

 また、九州をはじめとする太平洋側では、稲作農業の収穫期を襲う台風被害も深刻です。現代でさえも毎年のように太平洋側各地での被害が起こっています。

 それに対して日本海側では、台風は日本列島の山々を越えるので、比較的被害は小さくてすみます。

 気候の上で、水田稲作に適した地域は明らかでしょう。

 これらのように、福井平野の成り立ちは、淡水湖跡の沖積平野という天然の水田適地だけでなく、気候の面からも、非常に有利な立地条件が揃っています。

 雪国という春先に豊富な水が得られる環境。

 夏場の降水量が比較的少なく、

 稲の収穫期の台風被害も少ないです。

 さらには、気温の点でも、冬場以外は九州とほとんど変わらない温暖な気候です。これは、沖合を流れる対馬暖流の効果です。

 このように、農業こそが経済活動のすべてだった弥生時代において、気象条件も含めた豊かな水田適地に人口爆発が起こり、超大国が出現しました。

 それが邪馬台国だったかどうかは、100%は断言できません。

しかし、魏志倭人伝に記されている行路の完全一致、王族の存在を窺わせる考古学的史料、実在の確かな最古の天皇の出現、などなど大量の根拠を元にすれば、越前が邪馬台国だった事は99%間違いないでしょう。

 古墳時代以降に人口爆発が起こった近畿地方もまた、淡水湖跡の沖積平野でした。河内湖と奈良湖という巨大な淡水湖が干上がった場所です。弥生時代末期にもある程度の人口爆発が起こったと考えられています。それは淡水湖の水引は徐々に起こりますので、水田地帯も徐々に広がって行くからです。河内湖周辺の弥生遺跡がそれを物語っています。この時代の近畿地方は、邪馬台国のライバル国です。魏志倭人伝にも、女王国の南に位置する「狗奴国」が記されています。