魏志倭人伝の記述をめぐって、数多くの論争が起こっています。そもそも不正確な書物なので、論争をしても仕方ないのですが・・・。
ここでは、主な論争事項と、私なりの解釈を記載します。
邪馬臺國(ヤマタイコク ) vs 邪馬壹國(ヤマイチコク) 論争
魏志倭人伝の中には、邪馬臺國(ヤマタイコク )という記述は一切ありません。すべて邪馬壹國(ヤマイチコク)となっています。邪馬臺國(ヤマタイコク )の記述は、
・後漢書(4世紀)
・随書(636年)
・梁書(7世紀)
・太平御覧引用魏志(984年)
などで表記されています。これらの書物は、魏志倭人伝を引用したものです。
三国志(ほんの一部に魏志倭人伝の記載)は、しっかりした書物になるまでの900年間で、およそ45回もの写本がされています。それを考えると、魏志倭人伝の誤植と見るべきでしょう。粗末な紙に書かれた、個性的な草書体ですので、写本すれば、誤植は避けられないでしょう。
どっちにしても、たいした問題ではありません。
邪馬壹國(ヤマイチコク) vs 邪馬壹國(サバイコク) 論争
仮に(ヤマイチコク)だった場合でも、同じ漢字で、発音が違うということです。古代中国語(客家語の先祖)でどう発音されたか、知る術もありません。
どっちにしても、たいした問題ではありません。
南至投馬國水行二十日 論争
九州北部の不弥国から、次の投馬国へ向かう方向の論争です。南に向かうと九州。さらにその南へ陸路1月となるので、記載に無理があります。これも、邪馬臺國(ヤマタイコク ) vs 邪馬壹國(ヤマイチコク) 論争と同じく、誤植と見ればよいです。「南」と「東」を読みづらい草書体で書けば、よく似ています。
あるいは、当時の朝鮮の地図に間違いがあったからかも知れません。その地図は、右図です。九州を北端として本州は南に伸びています。つまり、九州から本州へ東に向かう事が、地図上では南に向かう事になるからです。ただし、この地図は10世紀以降の作成で、公文書というわけでもありませんので、曲解といえるでしょう。
どっちにしても、たいした問題ではありません。
伊都国(現在の糸島市)が北方の監視拠点だった?
九州は、北部だけでなく中・南部も古来より歴史のある土地です。出土品から多数の国があったことは確実です。糸島市は、九州の北部に位置します。単純に考えて、伊都国が九州北部での拠点だったと読むのが自然でしょう。伊都国は九州北部の中心地として栄え、九州中部・南部の勢力を抑える役割を果たしていたのです。
どっちにしても、たいした問題ではありません。
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