魏志倭人伝が無ければ、『邪馬台国探し』というロマンはありませんでした。古代中国に感謝です。
ところがこの書物、自説に都合の良いように、ありとあらゆる曲解が出来てしまうのです。
私も、自説(越前説)を唱えるに当たり、魏志倭人伝の知識を収集しました。邪馬台国の根本的なところを押さえておかねば、論外ですよね。
今回は、基本中の基本です。
下の地図は、中国と、黄河・揚子江と、「中原」と呼ばれる黄河中流域の、古代中国文明の中心地を示したものです。
魏志倭人伝は、三世紀に書かれた『三国志』の中の一部です。三世紀当時、中国は、魏・呉・蜀の三国に分かれていました。これらの国々の歴史を綴った書物です。
三国志の著者は、陳寿とういう人です。この人は、蜀の出身で晋の文官になった人物です。
晋の都・洛陽で編集したと考えられています。
三世紀中期には、魏の家臣・司馬炎によって中国全土が統一され、『晋』という国になりました。
陳寿は、晋の時代の西暦290年頃に、三国志を書き上げたとされています。
内容は、魏・呉・蜀の歴史です。そして魏の歴史の中に、東夷伝という朝鮮半島などの東国の記述があります。その中の一部に、日本の記述、すなわち倭人伝があります。
三国志の中の、ほんの0.5%、たったの二千字だけの記述です。
これが、一般的に知られている魏志倭人伝の概要です。私たちが目にするのは、これの翻訳本です。翻訳本とは言っても、翻訳者の主観が入っているので、色々な曲解が混ざっています。