六世紀に書かれた中国正史の一つ「宋書」には、五世紀に倭国・日本から度々使者が訪れている事が書かれています。
いわゆる「倭の五王」と呼ばれる倭国の王族が、中国の王朝である宋・南斉・梁へ朝貢しているのです。
日本書紀という日本の正史には、一切この事実は記されていません。邪馬台国を無視したのと同じように。
歴史学者は盛んに天皇家との関係を論じたがりますが、無理です。
今回は、倭の五王についての詳細と、彼らを歴代天皇に比定する事の無意味さについて、述べて行きます。
宋書は、中国南朝の宋の時代(420年 - 479年)の60年間について書かれた歴史書です。宋・斉・梁に仕えた沈約(しんやく 441年 - 513年)が斉の武帝に命ぜられて編纂したものです。本紀10巻・列伝60巻・志30巻の計100巻からなっており、中国正史の一つとされています。
宋が滅亡する前から、宋書の原文が書かれてあったので、沈約はそれらを元に作業することができました。
100巻すべてが成立したのは、宋が滅亡(479年)して間もない五世紀末頃とされています。
宋という王朝に仕えた多くの関係者が存命の時代に編纂されているので、信憑性に優れており、資料的価値は高いとされています。
倭国・日本については「夷蛮伝」(いばんでん)の記述の中に、倭の五王と呼ばれる日本の王族から朝貢が行われたことが記されています。僅かな記載ですが、この時代の日本の貴重な資料となっています。
なお、宋よりも後の時代の南斉(なんせい)書や梁書にも、倭の五王の記載がありますが、この宋書からの引用として、ここでは割愛します。
では、具体的にどのような記述がなされているのでしょうか。残念ながら、魏志倭人伝のような面白さはありません。倭国の風俗・習慣のような記述は一切ないのです。全てが、倭から中国へ朝貢してきた内容です。宋への朝貢が始まったのは西暦421年で、卑弥呼の宗女・壹與が魏へ最後に朝貢した266年ですので、150年後にようやく中国との国交が再開された事になります。
421年の最初の朝貢は、倭国の王・讃が、宋の皇帝・武帝へ朝献した事から始まります。
原文ですと分かりにくいので、年表で示して行きます。まず、邪馬台国の壹與の魏への朝貢が266年です。
そして、421年から倭の五王の朝貢が始まります。全部で12回です。
五王のうち、讃の朝貢が、西暦421年、425年、430年。珍の朝貢が、438年、443年、済の朝貢が、451年、460年、興の朝貢が、462年、武の朝貢が477年、478年、479年、502年、となります。
西暦421年 宋に朝献し、武帝から除授の詔をうける。
425年 使者・司馬曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる。
430年 宋に使いを遣わし、貢物を献ずる
438年 倭王・讃が死去し、弟の珍が王となる。
443年 宋・文帝に朝献して、「安東将軍倭国王」とされる。
451年 宋の文帝から、珍と同じ称号も与えられ、さらに「安東大将軍」に進号する。
460年 宋の孝武帝へ遣使して貢物を献ずる。
462年 宋の孝武帝、済の息子の興を「安東将軍倭国王」とする。
477年 遣使して貢物を献ずる。これより先、興が亡くなって弟の武が王となる。
478年 武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」と認める。
479年 南斉(なんせい)の高帝、王朝樹立に伴い、武を「鎮東大将軍」に進号。
502年 梁の武帝、王朝樹立に伴い、武を「征東大将軍」に進号する。
このように、倭の王様が、中国へ朝貢して、朝鮮半島を支配する為の役職が欲しかっただけの話です。
これらの倭の五王の血縁関係をまとめると、次のようになります。
宋へ最初に朝貢した讃がいます。
珍は、讃の弟です。
済の血縁は記されていません。
興は、済の息子です。
武は、興の弟です。
この血縁関係と、記紀に記されている時代背景から、ヤマト王権の天皇に比定しようとした学説があります。
最も典型的なのは、一番最後の「武」を第21代雄略天皇に比定する説です。これは一つには、記紀の中で描かれている雄略天皇は、勇猛果敢で残虐な人物ですので、「武」という漢字の意味と一致する事。そして雄略天皇の諱である大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)に「武」の文字が入っている事。さらには、時代が一致する事です。記紀の中での雄略天皇は五世紀後半と推測されますが、まさにその時代に中国の宋・南斉・梁へ朝貢していた事になります。
そのほかの四人の天皇については、諸説入り乱れています。
倭の五王と、ヤマト王権の天皇とを一致させるのは、そもそも不可能でしょう。魏志倭人伝よりも情報の少ない宋書の情報から推測するのは、ある意味、邪馬台国の場所を比定するよりも困難です。
そもそも日本では、考古学的に六世紀の天皇にならないと実在が確定できないのです。第25代武烈天皇までは、記紀という歴史書だけの存在で、実在を証明できる遺物が何もないのです。つまりこの時代の天皇は神話の天皇という事です。神話の天皇を中国史書に当てはめようとしても無理があるのは当然です。
また、第21代雄略天皇は実在を示す物証があるという意見もあります。この天皇の諱の銘が入った鉄剣が埼玉県と、熊本県から発見されたという曲解です。もし、これが正しかったとしても、近畿地方の大王だったという証明にはなりません。なぜならば、近畿からは何の出土品も無いからです。中央集権国家体制が整っていない時代ですので、関東地方の大王だった可能性や、九州地方の大王だった可能性の方が高いでしょう。
そして、記紀に記された雄略天皇は、それらの地方の王族の歴史を、そっくりそのまま引用したと考える方が自然でしょう。
では、倭の五王とは何だったのでしょうか?
おそらく彼らは、邪馬台国の卑弥呼や壹與をトップとした女王國の末裔の、大王たちだったように思えます。
弥生時代には、海上交通の便の良い北部九州から北陸地方までが、女王の支配する地域として存在していました。
弥生時代には、この地域を女王國と呼んでいましたが、三世紀に卑弥呼が亡くなり、卑弥呼の宗女・壹與が亡くなった後は、女王はいなくなりますので、この表現は正しくないかも知れませんが、ここでは女王國と呼ぶことにします。弥生時代から続く、女王の都・邪馬台国を中心とした巨大な勢力の呼称として、用います。
四世紀頃の女王國は、再び、倭国大乱のような内部での争いごとが繰り返されていた為に、中国への朝貢が途絶えた空白の150年が生まれたのでしょう。そして、紆余曲折がありながら、勢力範囲の拡大もあった事でしょう。
埼玉県の稲荷山古墳の鉄剣や、熊本県の江田船山古墳の鉄剣というのは、女王國の東の端と西の端にあたる地域です。
関東地方の強力な豪族や、九州中部地域の強力な豪族たちを懐柔する為に、権力の象徴とも言える鉄剣を、女王國は下賜したのではないでしょうか。
そういった倭国の状況の中で、五世紀頃に女王國は安定を取り戻し、また、中国・朝鮮の状況も「宋」という王朝によって安定した中で、朝貢が再開されたのでしょう。
古事記や日本書紀に倭の五王に相当する天皇が存在しないのは、邪馬台国の記述が無いのと全く同じ理由だと思います。これらが編纂された奈良時代には、邪馬台国や倭の五王は、ヤマト王権にとっては不都合な存在であり、当時の権力者・藤原氏一族にとっては隠蔽したい存在だったのでしょう。
元々、近畿地方は古代に於いては文明の流入が遅い、後進地域であり、裏日本でした。地政学上、当然でしょう。大陸からの文明が入って来たのは日本海側ですので、表日本が日本海側だった事は自明です。
日本海側の勢力、すなわち女王國のような存在が、倭国の中心だったのです。
六世紀になって、越前の大王・継体天皇が近畿地方を征服した事実が、これを如実に物語っています。
そして、七世紀~八世紀に掛けてヤマト王権内部で地位を上げて行ったのが藤原氏一族です。彼らは、おそらく九州地方を地盤とする勢力だったのでしょう。記紀の中の主人公は、九州勢力ですので。そして、近畿地方や九州地方にとって都合の悪い存在、それが蘇我氏一族を筆頭とする日本海側勢力だった訳です。
倭の五王についても、大和王権にとって都合の悪い日本海勢力だったのです。
記紀編纂時に、宋書という五世紀の中国正史の内容を知らなかったはずはありません。邪馬台国と同様に、敢えて無視したのでしょう。
魏志倭人伝が書かれている三国志や、倭の五王が書かれている宋書といった、中国の正史はかなり信頼性が高い書物です。それは、それぞれの王朝が滅んだ後に書かれているからです。権力者に忖度せずに書かれていますので、フラットな視点と言えます。
一方で、日本書紀という正史の信憑性は極端に低いでしょう。天皇家という現代まで継続している王朝の歴史書ですので、忖度だらけと言わざるを得ません。日本の歴史書で信頼性が高いのは、「偽書」とされている書物かも知れません。