明治時代から論争が続く、畿内説と九州説の戦いですが、昭和に入ると両方の説の美味しいところをつまみ食いするような説が現れます。九州説論者でありながら、邪馬台国への行路は近畿説が正しいと主張したり、畿内説論者でありながら、九州説の放射説を流用したりと、まさに「ちゃんぽん状態」となってしまいました。今回は、ちゃんぽん説の典型例として、橋本増吉と直木孝次郎を上げます。彼らの著書は、多くの矛盾点を煙に巻くような難解な内容です。
邪馬台国・畿内説を語る上では、明治時代の内藤湖南が先駆者と言える存在です。その説の中で、近畿地方へ至るルートにだけ焦点を絞れば、投馬国を三田尻あたりとする瀬戸内海ルートでした。その後、山田孝雄(やまだよしお)によって出雲を投馬国とし、但馬から上陸する日本海ルートへと進化しました。しかしこのルートは定着せず、鞆の浦や吉備を投馬国とする瀬戸内海ルートへと退化したりしながら、最終的には、出雲を投馬国、上陸地点を敦賀とする説が主流になって行きました。
これは、明治時代ではまだまだ考古学的な発見が少なく、科学的な検証も行われずに文献だけを頼りに解釈していた事が一因です。
神武東征という瀬戸内海を渡って来た神話が強く崇拝されていた為に、瀬戸内海を信仰するのが常識で、これを元に古代史研究が行われていたのです。
それでも、古事記の大半を占める出雲神話の存在や、卑弥呼と比定される神功皇后が敦賀を都としていた記述もある事から、日本海ルートの主張が大勢を占めるようになりました。当時の論客たちは意識していなかったようですが、水行20日、水行10日という、おおざっぱな航路も、日本海であれば対馬海流を利用した沖乗り航法が可能ですので、魏志倭人伝との記述に一致します。
ただし、このルートにも問題があります。上陸地点が敦賀であれば、この地の記載があって然るべきですが、それが無い事。そして、敦賀から大和へ向かうには、琵琶湖の水運を利用するのが理に適うのものの、わざわざ陸地を歩く陸行一月となっている事です。
また、明治時代にはまだ発見されていなかったのでやむを得ないのですが、、昭和・平成になってから丹後半島や但馬、越前などで重要な弥生遺跡が大量に発見されています。古代の日本海文化圏に対する認識が、明治時代ではまだまだ稚拙でした。
それでも、放射説などの苦しい曲解をしなければならない九州説のルートよりは、説得力があった事は確かです。
そんな状況でしたので、九州説を支持する学者の中にも、畿内説・日本海ルートを採用する者が現れました。橋本増吉という、歴史学者です。
彼は東京大学出身でしたので、自然な流れで白鳥庫吉の説を強力に補強するかたちで、邪馬台国九州説に関する論陣を張りました。邪馬台国の比定地も同じく、筑後の山門郡でした。
しかしながら、魏志倭人伝に記されたルートでは、どうしても九州島の中には収まらないので、
とんでもない曲解を行いました。畿内説とのちゃんぽんです。
簡潔に彼の論旨を説明します。
「魏志倭人伝の行路は正確だ。このルートは出雲、敦賀を経由して近畿地方の大和に至る。
しかしながら、これは魏志倭人伝の著者・陳寿の勘違いだ。
彼の頭脳の中に、大和朝廷に関する知識があって、混乱したのだろう。
九州の不弥国から九州の山門へ行くべきところを、近畿地方の大和へ行く行路と誤認して、魏志倭人伝に記してしまったのだ。」
との事です。
もちろん、この結論に至るまでには、各論について詳細な考証がなされたことはいうまでもありません。
B: ちょっと待って。
A: なっ、なに?
B: 橋本増吉先生って、子供の論理ですね?
A: そうですね。よくもまぁ、って感じですね。
B: 素直に畿内説を唱えればいいのにね?
A: そうはいかない大人の事情があるのですよ。神門酔生さんもおっしゃっていました。
「若いころに、学者の世界というのを、ウンザリするほど見聞しておりますが、とにかく、先生の説に少しでも反論しようものなら、出世はおぼつきません。ですから、内心では、「違うんじゃあ、ないか」、と思っても、先生の説を受けて、それを展開していかないことには、とても教授にはなれんのであります。」
A:ってね。
B: 大人って、大変なんですねぇ?
A: そうよ!
話を元に戻します。
魏志倭人伝の記述を、著者である陳寿の頭脳にまで妄想を膨らませた橋本増吉ですが、これは、珍しい事ではありません。現在でも、ヘンテコな理屈を唱える輩も少なからずいます。
例えば、邪馬台国が筑紫平野とした場合、水行10日・陸行1月は長すぎる時間ですが、これを、短い距離に合わせるために、
「魏から倭国へやって来た使者たちを大いにもてなし、各地で接待が行われた為に、短い距離でも陸行一月という時間が掛かってしまった」、などというおバカな事を真面目に言っている論者も存在します。
橋本増吉は、九州説論者でありながら、邪馬台国までのルートを畿内説に求めましたが、逆のケースもあります。直木孝次郎という昭和の歴史学者です。京都大学出身ですので畿内説論者なのですが、九州説で唱えられた放射説を流用しています。
彼の邪馬台国比定地は、奈良盆地の大和ではあるものの、投馬国の比定地を四国・讃岐(香川県)の詫間郷に比定しています。この時点で、瀬戸内海ルートを取った事が分かりますので無理がありますが、さらにその解釈を九州・伊都国からの放射説を流用しているのです。
つまり、伊都国から水行20日で讃岐の国・投馬国に到着するという算段です。放射説ですので、伊都国から水行10日および陸行1月で近畿・大和の邪馬台国、というわけです。
四国・讃岐の国を投馬国とした理由としては、銅剣・銅鐸文化圏の境目にあたる特殊な地域であるという考古学的な見地からの推測でした。残念ながら現在では、銅剣・銅鐸文化圏で弥生時代を語る輩はいません。それは出雲平野での銅鐸の大量出土によって、分布地図がガラリと変わってしまい、意味をなさなくなったからです。
青銅器にこだわり、かつ瀬戸内海航路の困難さを理解していなかったということです。
昭和から平成に掛けて活躍した学者ですが、考古学の発見のスピードや、科学進歩について行けなかったという事です。
彼はまた、狗奴国という女王国のライバル国を、九州説と同じ熊襲国と比定していました。
放射説といい、狗奴国の場所といい、自説に都合の良いように九州説の美味しいところをつまみ食いしていたわけです。
これまで魏志倭人伝の行路に焦点を当ててきましたが、過去の学者さんたちは、行路だけで邪馬台国を比定したわけではありません。その当時の考古学的な発見や、風俗・習慣、特産物などの考察もなされています。そして、古事記・日本書紀などの文献史料が正しいという事をベースに説を組み立てているのが特徴です。また、中国史書からの無理な引用も多々見られます。
現在でも、あまりにも強引な曲解をする歴史学者がいますので、明治時代以降、そんなに変わっていませんね。