邪馬台国の比定地論争では、自説を正当化する為に様々な曲解がなされてきました。
魏志倭人伝に記された方角・距離・日数などを都合の良いように解釈した為に、今やカオス状態となっています。
そこで基本に立ち返って、魏志倭人伝を普通に読んでみました。但し、多少の曲解が無ければ、どうしても九州島にさえ上陸できないので、一つの基準を設けてみました。それは、「奴国」が博多湾地域だという大前提です。今回は、帯方郡から奴国までの行路を検証します。
畿内説や九州説という比定地論争を抜きにして、フラットな状態で魏志倭人伝を読んでみました。すると、北部九州の様子が、詳細かつ克明に書かれている事に、改めて気付かされます。
特に、女王国の中の一つ、奴国については、邪馬台国時代よりも200年も前に、中国から金の印鑑を受け取っている歴史があります。
福岡市の志賀島で発見された漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)です。
中国の正史である後漢書にも載っているもので、建武中元2年(西暦57年)に、奴国からの使者へ冊封のしるしとして賜った印鑑です。
この一点だけでも、奴国がこの地に存在していた事は間違いありません。
また、博多湾遺跡群をはじめとする顕著な弥生遺跡がこの地域に集中しています。出土品の内訳をみても、刀剣類、宝石類などの「王族」の存在を窺わせる出土品多いのが特徴です。
同じ九州でも、南側に位置する筑紫平野では、吉野ヶ里遺跡や平塚川添遺跡などの大きな拠点集落はあるものの、強力な王族が存在していたとは疑わしいです。筑紫平野は小国が林立していた、いわゆる倭国大乱が起こった地域だったのでしょう。
この事から、魏志倭人伝に記された「奴国」は、博多湾沿岸地域だったと推定します。そしてここを基準に、倭人伝をフラットに読み込んで行きます。
すると、邪馬台国までのルートが鮮明に浮かび上がってきます。
魏志倭人伝では、奴国は邪馬台国に至るまでの途中にあります。
では、行路の始点である帯方郡(現在のソウル市近郊)から、邪馬台国までのルートを順を追って整理してみましょう。
まず、南に行ったり、東へ行ったりしながら7000里で、倭の北岸の狗邪韓國(現在の釜山市)に到着します。
ここからは対馬海峡を渡って行くことになります。
なお、博多湾の奴国に到着する事を前提に進んで行きますので、魏志倭人伝に記されている方角は無視します。
狗邪韓國から1000里あまりの海を渡ると対海国・対馬に到達します。そこから、1000里あまりの海を渡ると、一大国(壱岐)に到着します。さらに1000里あまりの海を渡ると、末蘆国(今の長崎県伊万里市)に到着します。因みに、伊万里市周辺の広域な地域は、江戸時代までは、松浦郡と呼ばれていました。末蘆国が九州島の最初の上陸地点という事です。
さらに、陸地を行く事500里で、伊都国に到着します。
伊都国は現在の福岡県糸島市。江戸時代までは、怡土郡と呼ばれていました。
ここから100里で博多湾の奴国に至ります。
何ら問題なさそうですね。でもこれは、記されている方角を無視しているからで、実際にはしっかりと曲解しているのです。詳細は後で述べる事にします。
方角の曲解を検証する前に、まずは女王国までの距離について検証してみましょう。
魏志倭人伝には行路の記述の後に、「自郡至女王國 萬二千餘里」帯方郡から女王国に到着するまでは、12000里とあります。
これを、帯方郡から伊都国までの具体的な距離と比較してみましょう。個々の距離を合計すると、10500里となります。そして、対馬の長さと壱岐島の長さを加えると、合計は、だいたい12000里となります。
つまり、行程で書かれていた個々の距離と、全体の距離12000里とはほぼ一致していますので、魏志倭人伝では前後関係を正確に捉えて表されている事が分かります。
なお、12000里というのは邪馬台国までの距離と曲解する論者もいますが、魏志倭人伝にそんな事は、どこにも書かれていません。あくまでも、諸国連合国家の女王国までの距離です。つまり、女王国の玄関口である伊都国までの距離ということです。
また、距離の一致だけでなく、伊都国に関する記述とも一致します。
「皆統屬女王國、郡使往來常所駐」
皆、女王国に統属す。郡使往来し常に駐する所。
つまり、入国管理局のような役割があったとされていますので、まさに女王国の玄関が伊都国なのです。
伊都国に比定される福岡県糸島市は、博多湾沿岸地域に負けないほどの弥生遺跡が発見されていますので、魏志倭人伝の記述がとても正確である事が分かります。
この伊都国からわずか100里の奴国は、博多湾沿岸地域との整合性が取れます。二萬餘戸もの大きな国だという描写がありますので、北部九州で最も大きな国だったのでしょう。
B: ちょっと、待って!
A: なっ、なに?
B: 奴国へ行くなら、わざわざ末蘆国や伊都国に行く必要は、ないんじゃ、ないの?
A: その通りです。壱岐から玄界灘を渡って来るのに、糸島だろうが、博多湾だろうが、大差はないですねぇ。ところが末蘆国・伊万里あたりが上陸地点となっています。
これは、女王国の防衛上の理由からです。外国の船が直接博多湾に入って来るのを、女王国が嫌ったのでしょう。
そのために、少し離れた伊万里あたりを上陸地点として、厳しく定めたのです。
B: ふぅーん、江戸時代の長崎の出島みたいですね?
A: そうねぇ。そう定めておけば、外国人は勝手に入り込めないし、もし入ってきたら問答無用で殺されていたのでしょうね。
ですので、魏からの使者たちも、女王国へ入るのに、背振山地という険しい山々を歩いて越えなければならなかったのです。そして、ようやく伊都国という入国管理局に辿り着けたわけです。
B: なるほど、魏の使者と言えども容赦しなかったわけですね?
A: そうよぉ。魏志倭人伝の末蘆国の描写にも、「草木茂盛、行不見前人」
「草木が生い茂って、前を行く人が見えないほどだ。」とあります。
魏からの使者たちが、背振山地の獣道を無理やり歩かされた様子がよく分かります。
B: へぇー。魏志倭人伝から、いろんな事が分かるんですねぇー?
話を元に戻します。
帯方郡から奴国までは、魏志倭人伝の方角を無視して読めば、大体理に適います。
ただし、方角を考慮した場合には矛盾が生じてしまいます。
実際に方角が記してある行程は、対馬から壱岐、末蘆国から伊都国、伊都国から奴国です。
まず、対馬から壱岐島までは、魏志倭人伝では南となっていますが、実際には南東方向です。つまり、45度のズレがあります。
そして末蘆国から伊都国まで、伊都国から奴国までは、魏志倭人伝には「東南」となっていますが、実際には北東方向です。つまり、90度近いズレがあります。おかしいですね。
でも、これを曲解しない事には、九州島には上陸できませんし、奴国へ辿り着く事もできなくなります。
このような魏志倭人伝の方角のズレがどうして起こったかは、想像するしかありません。
現実に、倭人伝の記述が誤っていますので、この事実を受け入れるしかないでしょう。
もちろんこの90度の方角のズレは、奴国までの行程だけでなく、奴国から先の邪馬台国までの行程にも当てはめなければなりません。そうしなければ、矛盾が矛盾を呼んでしまい、収拾がつかなくなってしまいます。
この曲解を次の行程にも当てはめてみます。次の不弥国への方角は東方向と魏志倭人伝には書かれていますので、実際には90度ズレた北の方向を進んだ事になります。推測してみましょう。すると不弥国は、大体、海に面したこのあたりになります。古代・海人族の宗像エリアです。
今回は、帯方郡から奴国までの行程を検証しました。できるだけ正確に辿ろうとしても、どこかで無理が生じて、曲解せざるを得なくなります。「奴国」という動かしがたい弥生時代の要所を基準にすれば、なんとか収まりがつくといったところです。「奴国」に来るまでの最大の曲解は、方角が90度ズレている事でしたので、次回以降の邪馬台国までの行程でも、この解釈を当てはめざるを得ないでしょう。