邪馬台国の比定地論争では、自説を正当化する為に様々な曲解がなされてきました。
魏志倭人伝を都合の良いように解釈してカオス状態となっています。
そこで基本に立ち返って、魏志倭人伝を普通に読んでみました。前回は奴国が博多湾であるとの大前提を立てましたが、やはり多少の曲解が必要でした。やむを得ません。今回は、この曲解を元に、次の不弥国へと進みます。すると見事に、魏志倭人伝の正しさが浮かび上がりました。
畿内説や九州説という比定地論争を抜きにして、フラットな状態で魏志倭人伝を読んでみました。すると、北部九州での行路が、詳細かつ克明に描かれている事に、改めて気付かされます。
前回は、、「奴国」が博多湾地域だという大前提に立って、記されている行路をトレースしました。もちろん、奴国が博多湾地域だという確証はありませんが、漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)の金の印鑑の出土や、弥生遺跡が九州のほかの地域を圧倒していますので、ここを基準にするのに無理はないはずです。
邪馬台国へ向かう行程に従って、朝鮮半島の帯方郡から出発し狗邪韓國、対馬海峡を渡り、対海国(対馬)、一大国(壱岐)と進み、九州島に上陸して末蘆国、伊都国、そして奴国に至りました。
すると、九州島に上陸した後の行程では、どうしても魏志倭人伝に記載された方角を90度ずらさないことには、奴国までは到着できないという矛盾が明確になりました。
これは仕方がありません。
今回、この90度のずれを、奴国から先の行程にも適用して、進んで行く事にします。
それは、行路の前後で解釈を変えてしまえば、矛盾が矛盾を呼んでしまうからです。
奴国の次には、今回のメインテーマ・不弥国があります。
魏志倭人伝では、奴国から東方向へ100里となっています。これに、90度の方角のズレを当てはめてみます。
そうすると、北の方角となります。
不弥国の位置は、大体、このあたりになると思われます。海に面した地域です。
ここもまた、古代遺跡の豊富な北部九州らしい場所です。世界遺産に登録された場所ですねぇ。
宗像三女神(むなかたさんじょしん)で有名な古代の海人族がいた宗像エリアです。古来より、海上交通の平安を守護する玄界灘の神様として崇敬を集めていますね。
偶然にしてもここは、魏志倭人伝の行程の記述に、ピッタリな場所です。なぜならば不弥国は、この先、投馬国まで水行20日という船による長距離の移動となっていますので、海の民・宗像海人族の拠点たるこの地は、最高の比定地となります。
魏志倭人伝の記述が、いかに正確かが、この不弥国の場所からも分かります。
不弥国からは南へ水行20日で投馬国に至る、となっています。宗像エリアから船をこぎ出して、長い長い旅となります。
方向は、南となっていますが、九州に上陸した後はずっと90度ズレて移動してきましたので、ここでもそれを当てはめます。つまり、東へ水行20日、東方向へ20日間、船によって進めば、投馬国に至る事になります。
すると、この時点で、邪馬台国九州説はファンタジー以外の何物でもない事になってしまいます。なぜなら、九州島からどんどん離れて行ってしまうからです。九州説を支持している皆様、ごめんなさい。
また、船が辿ったルートは、瀬戸内海と日本海の二つが考えられますが、これは普通に考えれば日本海ルートでしょう。
B: ちょっと待って!
A: なっ、なに?
B: 九州に邪馬台国がない事は、よく分かったけど、その先どうして日本海を東に進むんですか?
瀬戸内海でもいいんじゃないですか? 神武東征だって瀬戸内海でしょう?
A: そうですね。現代の感覚だと、瀬戸内海の方が賑やかですから、そっちの方をイメージしてしまいますね。けれども、瀬戸内海は、潮流速度や潮流変化の激しい世界屈指の困難な海域なのです。弥生時代の船の技術で、簡単に航海できる海ではありません。
B: へぇー? けど、日本海の方が冬の荒波のイメージがあって、難しそうですけどねぇ?
A: 冬は大変でしょうね。けれど、春夏秋と、ほとんどの時期は優しい穏やかな海なんですよ。
B: そうなんだ。
A: しかも、対馬海流という西から東へ一方向に流れている海流があるんです。これがあれば、沖乗り航法という、海流の力を利用して沖合を移動する事ができるので、毎日港に停泊する必要もないのですよ。
B: なるほど。瀬戸内海ルートだと、毎日港で休まないといけないものね。
A: そうなんです。潮目の良い時間を見計らう必要がありますからね。日本海ルートは、その必要がありません。
魏志倭人伝での不弥国から先の航路は、水行20日、水行10日という大雑把なものですが、その理由がここにあるのです。
瀬戸内海ルートだと、多くの港に立ち寄った記述が魏志倭人伝にあるはずなのに、それが無いですよねぇ?
B: 確かに!
A: いちいち港に立ち寄る必要がない沖乗り航法が成り立つのは、対馬海流を利用した日本海ルートだけなんです。
B: なるほどぉー?
魏志倭人伝って、船の移動方法まで分かるように書かれているんですねぇ? すごーい?
話を元に戻します。
不弥国を宗像エリアとしましたが、すぐ隣には直方平野があります。ここは、弥生時代前期の標識土器で有名な、遠賀川式土器が大量に見つかっている場所です。
水田稲作が日本列島全域に広がったのは、この遠賀川式土器とセットだったと言われています。
いわば、弥生稲作文化の発祥の地です。
この水田稲作文化は、対馬海流に従うように、日本海側を北上して青森県にまで迅速に伝播しています。
不弥国が、宗像・直方平野エリアだとすれば、魏志倭人伝の記述だけでなく、水田稲作の広がりにも見事に一致します。
このように、不弥国から先の行路は、対馬海流を利用した日本海ルートだったとすれば、あらゆる面で理に適います。
魏志倭人伝の邪馬台国までの行路を、不弥国まで丁寧に辿ってみました。すると、やむを得ず方角を90度ズラ必要があったものの、宗像という九州島の納得できる場所に収まりました。
この先は、対馬海流を利用した日本海航路となります。次の投馬国はどの辺になるのでしょうか? そして最終目的地・邪馬台国はどこでしょうか?
畿内説・九州説に囚われることなく、基本に立ち返って、魏志倭人伝を普通に読んで行きます。