魏志倭人伝を比定地論争を抜きにして、フラットな状態で読んでみると、邪馬台国までの行路はとても正確で、各地の様子も的確に記されていることに、あらためて驚かされます。
前回までに、投馬国までのルートを辿りました。今回は、いよいよ邪馬台国までの行路です。「水行10日陸行1月」という海の移動と陸の移動の二つが書かれている不思議な道程です。
邪馬台国は、九州でなければ近畿でもなさそうです。
魏志倭人伝を正確に読んでいくと、日本列島のどこにも到着しません。
そこで奴国を博多湾沿岸地域だという大前提に立って、記されている行路をトレースしました。
これまでに、朝鮮半島の帯方郡を出発して狗邪韓國、対馬海峡を渡って対海国、一大国、九州島に上陸して末蘆国、伊都国、奴国、不弥国、さらに日本海を渡って投馬国まで至りました。
この過程では、奴国を博多湾とする基準を設ける事で、魏志倭人伝の矛盾を解決しました。
九州において方角のずれが90°あるという矛盾です。やむを得ずこれを受け入れれば、不弥国が古代海人族の宗像エリア、投馬国が弥生遺跡の宝庫・但馬、丹後エリアという、筋の通った地域に比定され、魏志倭人伝がいかに正しいかが明確になりました。
今回は遂に、邪馬台国に至ります。投馬国から水行10日・陸行1月の場所です。
不弥国から水行20日で投馬国(但馬・丹後)に至り、投馬国から邪馬台国へは南方向へ向かう事になります。しかし、これまでと同じように、九州域内での90度の曲解をそのまま適用します。すると、実際には、東方向へ向かう事になります。
ここでもやはり対馬海流の作用を利用した沖乗り航法が可能となりますので、水行10日という大雑把な記述とも一致します。
なお、前回も指摘しました通り、投馬国から東へ向かうと、若狭湾に遭遇してしまいます。沖乗り航法といえども、陸地から30キロも離れた航海になりますので、これを一気に渡り切るには、危険が伴います。
そこで、若狭湾の手前の但馬・丹後エリアに必ず立ち寄り、天候のコンディションが最高の時期を見計らって、航海に乗り出したと見られます。
投馬国では必ず停泊しなければならなかったという点でも、魏志倭人伝の記述が正確である事が分かります。
投馬国から水行10日で辿り着くのは、対馬海流の1ノット(毎時1.85キロ)のスピードの沖乗り航法から考えて、上陸地点は越前海岸から能登半島の先端あたりと考えられます。
このエリアが、邪馬台国でしょうか?
いえ、まだまだ検証が必要です。魏志倭人伝には、これだけでなく、さらに陸行1月の記述があります。
これはどういう事でしょうか? 可能性としては、二つあります。
一つは、単純に水行10日の後、さらに陸行一月(AND)。つまり、船で到着した地点からさらに陸上を歩いて移動した可能性。
もう一つは、水行10日、または陸行一月(OR)。つまり、水行と陸行という異なる移動方法を使って、一つの目的地を表現した可能性です。
まず、一つ目の可能性を検証します。
この場合は、非常に不自然です。それは、船で到着した上陸地点の記述がない事です。投馬国から水行十日、そして陸行一月という邪馬台国との間にある港という事になりますので、とても重要なはずです。ところが、全く触れられていないのです。
魏志倭人伝の前後関係から言っても不自然です。九州の奴国や伊都国などの重要な国の記述だけでなく、その他の多くの小さな国々の名前の記述もあります。
もし、投馬国から水行10日の後で、さらに陸行一月だった場合には、少なくとも上陸地点の国の名前くらいは書かれていないとおかしいです。それが無いという事は、単純に水行10日の後、さらに陸行一月という意味は有り得ないという事でしょう。
それでもとりあえず、このケースの可能性を具体的に検証してみます。陸行一月の選択肢は、3つあります。
一つ目は、そのまま日本海に沿って進み、新潟辺りに至る。
二つ目は、東の方向の山岳地帯を通り抜けて、信州や東海地方に至る。
三つ目は、南下して、近畿地方に至る。
しかし残念ながら、やはりこれら三つのルートはどれも理に適いません。
一つ目の新潟方面へ行くならば、そのまま船で移動すればよいはずです。もし陸地を移動するにしても、親不知子不知という断崖絶壁の難所がありますから、かならず船を使った移動になります。
二つ目の信州方面や、東海地方へは、険しい山道となります。弥生時代には獣道しかなかった困難な道のりです。そして、植民地である北部九州からやって来た場合には、収穫物などの大きな荷物を運ばなければならないはずですが、そんなものを担いで峠を越えて行くなど、現実的ではありません。
三つ目の近畿地方も同じ理由で、現実的ではありません。さらに、この行程には琵琶湖があります。大きな荷物を運ぶ長距離移動は、船を使うのが当然だった古代ですので、せっかく琵琶湖の水運があるのに、わざわざ陸路を使って近畿地方へ行くなど、有り得ないでしょう。
B: ちょっと、待って?
A: なっ、なに?
B: 三つ目のルートって、邪馬台国畿内説じゃないの?
A: そうですね。日本海での水行十日の上陸地点を敦賀として、そこから陸路一ヶ月かけて奈良盆地南部へと至るルートが、畿内説では一般的ですね。
B: 敦賀って、神功皇后が都を置いたところでしょう?
とっても重要な場所じゃないんですか?
A: 確かに卑弥呼をモデルとした神功皇后ですので、彼女が都とした敦賀は無視できないですね。
でも魏志倭人伝を素直に読むと、敦賀に関する記述は一切ないのです。
ここを上陸地点としたならば、少なくとも国の名前くらいはあってもいいものですよね。
B: ほんとですね。小さな国の名前はいっぱい書いてあるのに、邪馬台国への上陸地点の名前が書いてないのは不自然ですね?
A: そうなんです。敦賀から奈良盆地への陸路一月というのも、琵琶湖を利用して船で移動する方が自然ですしね? そう考えると、やはり邪馬台国畿内説はファンタジー以外の何物でもないって事ですね? 畿内説を支持している皆様、ごめんなさい。
B: 残念でした。
話を元に戻します。
このように、「水行10日陸行1月」の意味は、船で10日間移動した後に、到着した地点からさらに陸上を移動したという意味ではない事が分かります。
とすれば一体どこが邪馬台国なのでしょうか?
「水行10日陸行1月」もう一つの解釈が現実的です。
水行10日、または陸行一月。つまり、水行と陸行という異なる移動方法を使って、一つの目的地を表現した可能性です。
この時点で、邪馬台国の場所はほぼ決定ですね。
しかし、どうして「陸行一月」などという大きな荷物を運ぶには現実的ではない行路が、魏志倭人伝には記述されているのでしょうか?
普通に考えれば、書く必要の無い行路ですが、実はこれにも、ちゃんとした根拠があったのです。魏志倭人伝って、本当に正確です。
詳細は次回に持ち越します。
投馬国(但馬・丹後)から「水行10日」で辿り着く場所は、越前海岸から能登半島に掛けての地域となりました。また、魏志倭人伝にある「陸行一月」という記述は、その先への陸路ではない事も明らかです。この見過ごされがちな「陸行一月」が、実は非常に重要な意味を持っているのです。
ここまでの航路の曲解は、博多湾沿岸を奴国とした際に方角を90°修正しただけです。そのほかは一切いじっていません。魏志倭人伝って正確ですね。