魏志倭人伝を比定地論争を抜きにして、フラットな状態で読んでみると、邪馬台国までの行路はとても正確で、各地の様子も的確に記されていることに、あらためて驚かされます。
前回はようやく邪馬台国に至りました。行路としては、「水行十日」と「陸行一月」の2種類がありますが、陸地を一ヶ月歩く意味合いが不明でした。今回は、「陸行一月」が意味する重要な要素を解明して、魏志倭人伝の正確さを示します。
魏志倭人伝を正確に読んでいくと、日本列島のどこにも到着しません。
方角を曲解しない事には、九州に上陸する事さえできないからです。
そこで奴国を博多湾沿岸地域だという大前提に立って、行路を辿ってみました。
すると、九州に上陸後は方角を90°修正することで、奴国に到着することができました。
この基準を元に、奴国から先の行路を辿ると、次の不弥国は、古代海人族の宗像エリア。さらに日本海を渡って投馬国は弥生遺跡の宝庫、但馬・丹後エリア。そして最終目的地の邪馬台国は、越前海岸から能登半島にかけてのエリアである事が分かりました。
ところが最後の行路、「水行十日・陸行一月」に謎が残りました。
それは、「陸行一月」という一見必要の無い行路が記載されているからです。
果たして意味があるのでしょうか?
邪馬台国時代の長距離移動の状況を洞察してみましょう。
牛も馬も伝来していなかった時代ですので、人々の長距離移動は歩くことでした。
道路は、現代のようにアスファルトで舗装されていないどころか、江戸時代のような街道も整備されていませんでした。平野部の道路は、せいぜい畦道程度のものだったでしょうし、山間部ともなれば、野生動物が通る細い細い獣道しかなかったことでしょう。
そんな状況でしたので、当時の長距離移動は、船を使うのが普通だったと思います。船といっても、丸木舟や小型の準構造船程度のものだったでしょうが、それでも歩いて山々を越えて行くよりは遥かに便利だったでしょう。
さらに大きな荷物を運ぶとなると、歩いて移動するなど、ほぼ不可能です。
特に、日本列島という急峻な山々の多い地形では、船による移動が主流だったのは間違いないところです。
そんな中で、魏志倭人伝に記された「陸行一月」というのは、とても奇妙に感じられます。険しい山々の獣道を重い荷物を担いで一ヶ月間も歩くなどとは、狂気の沙汰です。
仮にその区間を船による移動・「水行十日」が可能だったとすれば、「陸行一月」などという困難な移動手段を記述する必要は無かったのではないでしょうか?
しかし、「陸行一月」を必ず記述しなければならない理由が、邪馬台国にはあったのです。
投馬国(但馬)から邪馬台国(越前)までの地形を見てみましょう。
若狭湾を挟んで対峙するように、投馬国と邪馬台国は位置しています。距離は60キロほどあります。また、日本海には、西から東へ対馬海流が流れています。
投馬国から邪馬台国へは、水行十日という沖乗り航法による移動が可能です。そして、順方向の海流に乗れるので、比較的容易な航海となります。60キロもの長距離となりますが、若狭湾を一気に渡り切る事が出来るでしょう。
ところが逆はどうでしょうか? 東から西への移動です。これは海流が逆方向になりますので、沖乗り航法は不可能です。1ノット程度のゆっくりな海流ですので、船の漕ぎ手が頑張れば多少は進めますが、24時間漕ぎ続ける事はできません。弥生人といえども、睡眠を取らないわけにはいきません。すると、漕ぎ手が休んでいる夜の間に、船は元の場所に戻されてしまいます。
ではどうやって、邪馬台国から投馬国へ戻ったのでしょうか?
それは地乗り航法です。
地乗り航法は、海岸部に沿うように航海するもので、自然条件が悪くなったときには、湾内や島陰などに避難できますので比較的安全な方法です。しかし、日が沈む前に港に寄港しなければならないなど、日数が多くかかってしまいます。
この地乗り航法で、若狭湾を東から西へ進むわけですが、想像以上に多大な困難があります。
それは、対馬海流に逆らう事による潮待ちが必要ですし、直線的な航路を進めませんので迂回が多くなります。さらに若狭湾はリアス式海岸ですので断崖絶壁が多く、いざという時に上陸できる浜辺が少ない、などの問題があります。
このように投馬国から邪馬台国へは直線的な沖乗り航法ですので、10日もあれば十分ですが、逆の邪馬台国から投馬国へは、一ヶ月では効かない長期間のスケジュールになってしまいます。
そこで浮上するのが、「陸行一月」です。
本来必要とされない、陸地の長距離移動ですが、海を移動するのが不都合な場合には用いられたことでしょう。
たとえ獣道しかない不便な行路であったとしても、海路を使うよりも早く目的地に着けるならば、そちらを選ぶのが合理的です。
邪馬台国から投馬国への東から西へ向かうという、対馬海流に逆らう行路では、船を使った移動よりも、陸地を歩く方が合理的だったという事です。
B: ちょっと、待って?
A: なっ、なに?
B: 陸地を歩く方が早く着くのは分かったけど、たったそれだけの理由なの?
A: 実は、さらにもう一つ、大きな理由があったのです。
B: なになに?
A: それは、運搬する物資の問題です。
魏志倭人伝には、女王国の勢力範囲として、伊都国(現在の福岡県糸島市)からが支配地域となっています。そして、奴国や不弥国という玄界灘に面した場所も支配地域です。
これらの北部九州の国々からは、遠く離れた邪馬台国まで、多くの物資が運ばれた事は、想像に難くありません。
B: ふむふむ? つまり北部九州は女王国の植民地だったって事ですね?
A: そういうことです。植民地からは租庸調という租賦を収めさせるのは普通です。
これは、魏志倭人伝にも記されています。
「収租賦有邸閣 國國有市 交易有無」
租賦を収め、邸閣有り。国国に市有りて、有無を交易す。
B: へー、そんな事まで書いてあるんだ?
A: そうよ。そして、北部九州で徴収した大きな物資は、大型の船で運ばれます。
その際に、西から東へ流れる対馬海流は打って付けですね。
多くの動力を必要とせずに、自然の力で邪馬台国まで船を移動させてくれますから。
若狭湾という60キロもの距離がある海域も、沖乗り航法で一気に渡り切る事が出来たでしょう。
でも、逆方向はどうでしょうか?
B: うーん。大きな荷物を運ぶ必要がなくなりますね?
A: その通りです。租・庸・調を運ぶ必要がなくなるんです。その代わり、北陸地方特有のものを運んだと考えられます。
B: えっ、なんですか?
A: それは、宝石類です。新潟県の糸魚川で取れる翡翠は有名ですね。そのほかにも、碧玉や瑪瑙などの鉱脈があるんです。北陸地方は、7000年前の縄文時代から玉造りが行われていて、日本全国どころか中国大陸へも輸出しているんです。
もちろん北部九州の遺跡からも、たくさん出土しているんですよ?
B: へー、そうなんだ?
A: 何が言いたいかというと、邪馬台国から投馬国へは、大きな荷物ではなくて、宝石類という小さいけれども価値のある品々を運んだと考えられるのよ?
B: なるほど?じゃ、大きな船で運ぶ必要はないんですね?
A: その通りです。かさばる荷物ではないので、歩いて運ぶ、つまり獣道だってへっちゃらなんです。
B: そうなると船を使う必要は、全くなくなりますね?
A: そうなんです。
投馬国から邪馬台国へは船を使い、邪馬台国から投馬国へは陸地を歩く。
なぜ魏志倭人伝に「水行十日・陸行一月」という、わざわざ二通りの行路が書かれていたのか。
その理由が、ここにあったんです。
B: ぎょえー、理詰めすぎー?
話を元に戻します。
このように魏志倭人伝に書かれた投馬国から邪馬台国への行路は、ちゃんとした理由があったわけですが・・・。
B: ちょっと、待って?
A: えっ、また?
B: 対馬海流に逆行するのに陸路を使ったのは、よく分かったのですが、投馬国から北部九州に戻るのは、どうしたのですか?
これだって、逆行でしょう?
A: またまた良いところに気が付いたわねぇ。
でも、時間が来たので、答えは次回にしまぁーす。
B: えぇぇぇー? まだまだいっぱい質問があるのにぃーー。
A: 次の動画をお楽しみにぃ。
魏志倭人伝に記されている不思議な行路、「水行十日・陸行一月」は、このように正確な理由がありました。
この行路に適合する場所は、これまでのところ、「但馬 ⇔ 越前」以外には考えられません。もしほかの地域で、「水行十日・陸行一月」に適合する場所があれば、ご教授ください。なお、
「魏の使者が輿に乗ってゆっくり移動するので、陸行一月は掛かる」なんて事は言わないようにね。(笑)