魏志倭人伝に記された女王の都は、九州から遥か遠く離れた場所にあります。行路が記されているものの、魏の使者たちが、実際にその地まで足を踏み入れたか否かは、定かではありません。邪馬台国の研究者の多くは、「九州島内までしか行っていない」という意見です。それは、投馬国や邪馬台国への行路で、「水行・陸行」という距離によらない大雑把な記載からも、推定されるところです。
今回は、魏からの使者たちの記載に基づいて、魏志倭人伝を検証します。
まず、邪馬台国までの行路を再確認します。朝鮮半島の帯方郡(現在のソウル市近郊)を出発して、狗邪韓國(現在の釜山市近郊)に到着します。ここから海を渡って、対海国(対馬)、一大国(壱岐)に至り、さらに九州島の上陸地点・末蘆国(伊万里)に至ります。
ここからは陸路で、伊都国(糸島市)、奴国(博多湾)、さらに不弥国(宗像市)へと進みます。この行程は、奴国が博多湾沿岸地域であるという前提に立って進んで来ましたので、魏志倭人伝での方角を曲解しています。それは倭人伝の方角が、実際よりも時計回りに90°ずれていたという事です。
この方角のずれを、先の行路にも適用すると、投馬国は但馬、邪馬台国は越前となります。随分と遠い場所にありますね。日本列島だけ見れば、北部九州から越前までは600キロほどもあり、簡単には移動できないように思えます。
しかし、朝鮮半島の帯方郡からの距離や、広大な中国大陸にある魏の都・洛陽と比較してみると、決して長距離だとは言えない事が分かります。
例えば、北部九州から帯方郡までがもっと遠い800キロ。さらに帯方郡から魏の都・洛陽までとなると、1200キロもあります。全体から見れば、九州から邪馬台国までの距離はさほど長くない事が分かるでしょう。
一方、日本列島における長距離移動の歴史から見ても、決して長い距離ではありません。それは、弥生時代よりも何千年も前の縄文時代中期には既に、海の民である我々の祖先たちが、環日本海をダイナミックに航海していた痕跡があります。それらと比較すると、邪馬台国時代の移動としては、驚くほどの長距離とは言えないでしょう。
余談ですが、邪馬台国時代を考える上で、九州のような極めて狭いエリアだけで考察する事の愚かしさも、ここから見えてきます。
では、魏志倭人伝に記されている魏からやって来た使者たちは、実際に邪馬台国まで行って、卑弥呼と会っていたのでしょうか?
魏志倭人伝に記されている魏からの使者は、二回あります。
正始元年(西暦240年)と正始八年(西暦247年)です。
事の発端は、景初二年(西暦238年)に、倭の女王が、使者を派遣したところから始まります。使者・難升米らを朝鮮半島の帯方郡へ派遣して、魏への朝貢を申し出たのが最初です。
その翌年には魏の都・洛陽に詣でて、皇帝に献上品を捧げました。
さらにその翌年の正始元年(西暦240年)に、朝貢に対する豪華な下賜品が与えられ、倭国の使者と一緒に、魏の使者たちが倭国にやって来た事になっています。
魏の使者が女王国に来た時の様子として、魏志倭人伝の具体的な記述には、次のようにあります。
「正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭国 拝假倭王 并齎詔 賜金帛錦罽刀鏡采物 倭王因使上表 答謝詔恩」
「正始元年、太守、弓遵は建中校尉、梯儁等を遣わし、詔書、印綬を奉じて倭国に詣り、假倭王に拝す。並びに詔を齎(もたら)し、金、帛、錦、罽、刀、鏡、采物を賜う。倭王は使に因りて上表し、詔恩に答謝す。」
この中で、「倭国に詣でた」「假の倭王に拝した」とあります。
この事から、魏の使者が倭国までやって来た事は間違いありませんが、女王の都・邪馬台国までやって来たかどうかまでは分かりません。それは、倭王の前に假という字が付いているからです。魏の使者が面会したのは、本物の倭国の王ではないという事です。卑弥呼と面会したのであれば、「女王」と明記されて然るべきでしょう。
この事から想像するに、魏の使者が最初にやって来たのは、女王国の端っこにある伊都国までだったと思います。
伊都国は女王国の玄関口とも言える場所です。倭人伝には、とても厳しい入国管理局で、外国人が滞在させられていた、という記述がありますので、外交の窓口はこの地に限られていたのではないでしょうか?
仮の倭王とは、伊都国の管理を一任されていた総責任者、現代で例えるならば「外務大臣」のような立場の人物だったのでしょう。
二回目に、魏の使者が倭国にやって来たのは、七年後の正始八年(西暦247年)の事です。
これは、女王・卑弥呼がライバルである狗奴国との状況悪化を訴えた事に対する、魏からの支援でした。魏志倭人伝には次のような記述があります。
「倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢 拝假難升米 為檄告喩之」
「倭女王、卑弥呼は狗奴国王、卑弥弓呼素と和せず、倭、載烏越等を遣わし、郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹掾史、張政等を遣わし、因って詔書、黄幢を齎し、難升米に拝假し、檄を為(つく)りて之を告諭す。」
魏から遣わされたのは張政という名の使者でした。彼は、魏の皇帝の詔と、黄色い錦の御旗を持って、女王国の使者・難升米の代理人に拝したとあります。難升米とは、魏の都・洛陽に駐在していた日本大使のような存在です。
この難升米についても、「假」という文字がついていますので、魏の使者は日本大使の代理人と面会したと考えられます。ですので、この時点では魏の使者は、倭国にやって来てはいません。
そうこうするうちに女王・卑弥呼が亡くなり、倭国は戦乱状態となってしまいましたが、新たに13歳の女王・壹輿が立って、戦乱は収まりました。そこで魏の使者は、新しい女王に檄文を送ったとあります。この時点でもまだ、魏の使者が倭国に来ていたかどうかは分かりません。
そしてさらに、
「壹與遣倭大夫・・・ 送政等還 因詣臺・・・」
「壹輿は倭の大夫、率善中郎将、掖邪拘等二十人を遣わし、政等の還るを送る。因って、臺に詣る。」
これは、新しい女王・壹輿が、朝貢を行う為の使者を派遣し、その際に魏の使者・張政が帰って行くのを送ったとなっています。
ここでようやく、魏の使者が倭国に滞在していた事がわかります。どうやらそれまで、日本列島のどこかに魏の使者たちがいたようです。
このように、魏志倭人伝の記述からだけでは、魏からの使者たちが邪馬台国まで行ったかどうかは見えて来ません。
B: 質問でーす。
A: なっ、なに?
B: 魏の使者たちは、九州の伊都国までしか来ていないって、よく聞くんですけど?
それって、なにか根拠があるんですか?
A: そうですね。魏志倭人伝の中での、伊都国の描写のせいかも知れないわね?
女王国の入国管理局みたいな役割があって、外国から入って来る人達を厳しくチェックしていた様子が描かれていますからねぇ。魏からの使者たちも例外なく、ここで足止めを食わされていたのかも知れませんねぇ。
それに、倭国の風俗習慣が九州に一致する記述が多いことからも、伊都国あたりで倭人たちから聞き取りを行ったのかも知れません。
B: なるほど。でも、確証ではないんですね?
A: 残念ながら全て推測です。強いて根拠を挙げるならば、伊都国の記述の中に、「到伊都国」となっている事かしら? 「到着する」の「到」という字が使われているんだけど、その先の国々は、「至奴国」、「至不弥国」、「至投馬国」、「至邪馬台国」、ってなっているんです。つまり、伊都国の先は全て「至」の字が使われているので、実際には行っていないと言われています。
B: へーー。それは説得力がありますねぇ?
A: ただしこれにも問題があって、伊都国の前の国々にも、「至末蘆国」、「至一大国」、「至対海国」、ってなっているので、矛盾が生じてしまうんです。
到着の「到」が使われているのは、伊都国のほかには、朝鮮半島南端の狗邪韓國だけなんです。
B: んーー。じゃ、どうして到着の「到」と、至るって字を区別して使っているんでしょうねぇ?
A: これは、国境を越えた場所に到着したかどうかで使い分けているのです。倭国の最初の国・朝鮮半島の狗邪韓國に到着したから「到」、そして女王国の最初の国である伊都国に到着したから「到」、なのです。
B: むむむ? 奥が深いですねぇ?
話を元に戻します。
魏志倭人伝の内容を精査したところで、「魏の使者たちが邪馬台国まで足を踏み入れたかどうかは、分からない」となってしまいました。これでは評論家と同じで、無責任ですねぇ。そこで最後に、私の考えを述べておきます。私は、
「魏の使者たちは、邪馬台国へは行っていない。」
と考えます。
この理由は、次回の動画にて詳細を述べることにします。
中国・魏の都である洛陽から北部九州までは、約2000kmもの距離があります。一方、北部九州から邪馬台国・越前までは、約600kmです。たったの1/3にすぎません。魏からの使者たちは、本来であれば女王の都まで行き、その様子を本国へ伝えたかったに違いありません。ところが、女王国はそれをさせなかった。その理由は、魏志倭人伝の記述の中に隠されています。とても単純な理由です。次回は、私見を述べることにします。