古代の鉄は何に使われた? 倭国では〇〇の製作工具

 こんにちは、八俣遠呂智です。

邪馬台国の【鉄】シリーズ、四回目です。

前回までに、世界の鉄の歴史から古代社会に於ける使用用途について考察してきました。そこからは、「武器としての鉄」、「工具類としての鉄」、といったありきたりな用途よりも、むしろ馬の蹄に付ける蹄鉄という活用法が最も重要だったと推測しました。

 では古代日本での鉄は、どのように使われていたのでしょうか?

 鉄の生産が始まった事によって、人類は大きく進歩しました。古代における最も重要な使用用途は、「蹄鉄」です。これによって、馬という強力な動力を手に入れたのでした。

 しかしながら日本列島での蹄鉄の使用は、わずか数百年前の江戸時代からです。これは、日本在来種の馬は蹄が固いことや、大陸のような何万キロも平原が続く地形とは異なっていた事もあったようです。

 また、邪馬台国の時代には、まだ馬は存在していませんでしたので、蹄鉄を作る事自体、必要ありませんでした。

 では古代日本、特に邪馬台国の時代における鉄の使用方法は何だったのでしょうか?

 邪馬台国の時代を含めた古代日本における鉄は、鉄剣や鉄鏃などの武器に使われていたと思われがちです。それらの出土が工具類に比べて多いのは確かです。しかし、古代ヨーロッパにおける鉄と同様に、武器としての鉄は単なる威信財でしかありません。鉄剣が多く出土しからからと言って、当時の軍隊の兵士がみんな鉄剣を持っていた訳ではないし、そんな生産能力もありませんでした。

 また長い歴史の中で、鉄剣が戦争の武器として大活躍した、などという事は一度もありません。

 時代劇で描かれている戦さのシーンでは、日本刀を振り回して戦っていますが、そんなのはファンタジーでしかありません。日本刀を持っていたのは侍大将、鉄の鎗を持っていたのは足軽大将、といった一部の者だけです。何千何万もの大軍のほとんどは、竹槍部隊だったり、石礫部隊、落とし穴などの罠をこしらえる工作部隊、などでした。日本刀は切れ味が鋭く見かけは立派ですが、実戦的ではありません。たとえ人を一人切ったとしても、その時点で刃こぼれしてしまい、それ以降は使い物になりません。

また日本刀と木刀で勝負した場合、木刀が勝ちます。それは鉄の刀は重量が重く、使いこなすのが至難の業だからです。軽い木刀であれば、俊敏に振り回せますので、相手の急所に打撃を与えるのが容易なのです。

鎗も同じで、重い鉄を先端に付けているよりも、軽い竹槍の方が遥かに実戦的です。

 そもそも日本での戦争は、それ自体が形式的なものでした。戦いが始まる前に様々な裏工作がなされて、戦場に出る頃にはほとんど勝敗が決している、といったものです。現代の戦争のように大量殺戮が行われていた訳ではありません。

 という事は、鉄剣や鉄鏃などの鉄の武器は何の役割も果たせなかったのでしょうか? いいえ、そういう訳でもありません。裏工作を行う時点で、鉄の武器を示せば敵が恐れをなして委縮してしまったでしょう。また、戦場で侍大将が立派な鎧兜を身に着けて日本刀を振りかざし、「やあやあ我こそは~」、なんて事を叫べば、十分に敵を威嚇する効果があった事は想像に難くありません。

 少なくとも、鉄砲が出現するまでは、鉄の武器の役割りはその程度のものでした。鉄が実戦に役立ったのは、16世紀の火縄銃が使われ始めた時代からという事になります。

 古代日本において鉄の武器は、有れば有るに越したことはないが、無ければ無いでなんとかなる。というレベルのものでした。

 次に考えられるのは、開拓開墾用の土木工具や農作業用の工具です。

これも邪馬台国時代の三世紀には存在はしていたでしょうが、一般庶民に広く普及していた訳ではありません。それは、邪馬台国の700年後の平安時代の記録から分かります。

 平安時代は荘園制度が始まって、日本全国に少しずつ農地が広がって行った時代です。開拓開墾の工事に際しては、その土地の領主が一般庶民に鉄製の工具を貸し与えて作業を行わせていました。工事が終われば鉄の工具は領主に戻されていた訳です。一般庶民に広く普及していた訳ではないのです。これが10世紀の事ですので、3世紀の邪馬台国の時代には言うに及ばずでしょう。

 三世紀の遺跡から発見される土木工事用の工具は、ほとんどが木製品や石製品です。農作業の際に稲穂を刈り取る鎌でさえも、石包丁が使われていました。

 これは、工具のような実用品は鉄が錆びついて消滅してしまうから出土しないのだ、というご意見もあるでしょう。しかしながら、当時の倭国日本ではまだ製鉄が行われておらず朝鮮半島からの輸入に頼っていた事や、仮に日本国内で製鉄が行われていたとしても、大量の鉄を生産する技術や資源が無かった事から、実用品としての鉄製の工具類が一般に広く普及していたとは、到底考えられないのです。

 このように邪馬台国時代において、「鉄があったから軍事力が強力だった」、とか、「鉄があったから開拓開墾が進んだ」、というのはお伽噺に過ぎません。

 古代日本においては、鉄の重要性はさほど大きなものではありませんでした。それを物語るように、日本列島で製鉄が始まったのは、六世紀の古墳時代からの事です。存在の確実な製鉄所の遺跡が、その時代だからです。これは中国大陸での製鉄よりも1500年以上も遅れています。これは決して私たちのご先祖様の技術力が無かったわけではなく、鉄の需要が小さかったからに他なりません。また、当時の製鉄方法は大量の木炭を必要とし、国が滅びてしまう「恐怖の工場」でした。あえて日本列島で鉄を作る必要はなく、植民地だった朝鮮半島で作らせていた、と見るのが自然でしょう。

 そんな中で、邪馬台国時代に最も重要な実用品だったのは、玉造用の鉄製工具です。翡翠・瑪瑙・碧玉などの岩石を加工して、勾玉や管玉に加工する為の工具です。これらは、弥生時代から飛鳥時代に至るまでの1000年間お金の役割を果たしていましたので、玉造り工房には古代の造幣局というとても重要な役割がありました。

 玉造りの中で、翡翠の加工するのは困難を極めます。非常に硬いのです。

それを解決したのが、鉄製の工具でした。

鍛冶場で高温に熱した鉄を叩いて頑丈にした鉄は、硬い石を削ったり穴を開けたりして微細に加工する道具として、最適でした。弥生時代以前にも翡翠を加工した宝石はありましたが、勾玉のような形に加工されたものはありませんでしたので、鉄の工具によって初めて翡翠の勾玉の製作が可能になったという事になります。

 翡翠は希少性が高い上に加工が難しい鉱物ですので、この鉄を活用した玉造り工具によって、「翡翠の勾玉」という最高級ブランドが誕生したという事になります。

 古代日本の通貨の役割りを果たしていた勾玉や管玉。これらの加工用の道具としての鉄が、当時としては最も大切な役割り果たしていた事でしょう。

 世界的には、馬の蹄鉄としての鉄の活用法が重要でしたが、倭国日本に於いては、玉造り用の加工工具こそが重要だったのです。

 日本列島の邪馬台国時代の鉄の分布を見てみると、数で日本一多い「林藤島遺跡」や、量で日本一多い「奈具岡遺跡」、などが有名ですね? どちらも玉造遺跡という共通点があり、それらの地で勾玉という通貨が作られていました。つまり古代の造幣局だった場所です。またそれらの遺跡からは、鉄製の工具だけでなく、鍛冶場跡も見つかっています。

 林藤島遺跡は邪馬台国・越前。奈具岡遺跡は投馬国・丹後ですので、その当時の主要国家における実用的な鉄器として玉造用工具が使われ、そこで生産される宝石が通貨として使われていた様子が目に浮かびますね?

 いかがでしたか?

邪馬台国を語る際には、鉄の出土が多いから軍事力が強力だったとか、鉄の工具で農地を広げた、とかいう主張が多く見られますね? 確かにそれもあったでしょうが、鉄の存在は、国力の中のほんの一部に過ぎません。

「国の礎は農業なり」。当時は「天然の水田適地」にこそ、強力な国家が誕生したのです。鉄器が無くても十分な農業生産を上げられた地域です。そんな場所に邪馬台国が誕生したのです。そしてそこには玉造りという造幣局が設けられ、実用的な鉄製の工具も使われていた、という事です。

日本の製鉄は六世紀から始まった?

 現在のところ日本国内で鉄の生産が始まったのは、六世紀頃とされています。古墳時代後期の出雲や吉備、そして北近江が有名ですね?

 邪馬台国時代の三世紀はというと、確実な製鉄所は見つかっていません。但し、壱岐や菊池盆地、丹後半島などでは、鉄滓と呼ばれる製鉄した後に出る残りカスが発見されていますので、作られていた可能性はあります。まあ、製鉄が始まっていたとしても、とても細々と行われていて、大量生産されていたとは到底考えられません。

 これは本編の中でも述べましたが、当時の倭国日本での鉄の需要がとても小さかったからではないのか? と考えます。蹄鉄という馬の蹄に取り付ける為の鉄の生産は必要ありませんでしたし、鉄剣などの武器も実戦には向きませんので、どうしても欲しいというものでは無かったのでしょう。「朝鮮半島で作らせておけばいいや!」という程度のものだったのではないでしょうか?

 日本国内で確実に製鉄が始まった六世紀は、「磐井の乱」という朝鮮半島での権益を失った戦いがありました。おそらくこの戦いによって鉄を入手するルートが絶たれてしまい、国内で製鉄を始めなければならないという、やむにやまれぬ事情が生じました。古墳時代後期から日本で大規模に製鉄が始まったのは、そんな理由からではないでしょうか?