投馬国・丹後には、弥生時代中期~後期の豊富な遺跡や豪華な出土品があります。丹後半島という小さくて目立たない地域でありながら、出土品は、質・量とも、九州、出雲、近畿を上回っています。丹後の国を近畿地方に含めようとする学者もいますが、文化的に明かに異なっています。
丹後・投馬国、近畿・狗奴国という区分が妥当でしょう。当時のハイテク工業地域だった丹後半島は、日本有数の先進国でしたので、後進国・近畿とは一線を画していました。
今回は、丹後半島に密集している弥生遺跡の内、奈具岡遺跡と扇谷遺跡をピックアップします。これらの遺跡からの出土品から、邪馬台国・越前との時代的な相関関係について考察します。
この地図は、丹後半島を拡大したものです。僅か10キロ四方の小さな半島ですが、この地からは、弥生時代後期のハイテク産業の遺跡が大量に発見されています。
今回は、2つの遺跡に絞って紹介します。奈具岡遺跡、および扇谷遺跡です。
それぞれ、日本最古の鉄製工具を用いた玉造工房、日本最古の二重環濠を持つ高地性集落跡から豊富なハイテク製品が出土しています。
まず、奈具岡遺跡です。この遺跡は、弥生時代中期から後期の玉造工房で、鉄製工具を使った工房としては、日本で一番古い遺跡です。特に、水晶玉・ガラス玉の生産が特徴的です。生産された製品は、小玉・そろばん玉・なつめ玉・管玉で、ここでは、原石から製品までの一貫した玉作りが行われていました。また、加工工具に用いられた鉄製工具も自家生産されており、これを作るための鍛冶場跡も発見されています。
この遺跡だけで、8キロを超える鉄器が出土しています。弥生時代後期の鉄器の出土量は、九州・出雲を抜いて、丹後の国が最も多いのですが、その要因は、ほとんどがこの遺跡からの出土によるものです。
時代としては、一世紀~二世紀ですので、邪馬台国よりも少し前の時代です。
また、越前・邪馬台国では、林・藤島遺跡という同じような遺跡が発見されていますので、時代と鉄の流れを示唆する興味深い遺跡です。
次に、扇谷遺跡(おうぎたにいせき)です。
弥生時代前期末から後期にかけての高地性集落跡で、二重環濠を持つ集落としては日本最古とされています。
出土品は、鉄滓(てっさい)、鉄製工具類、菅玉、ガラスの塊、機織り部品などの出土品があります。どれも学術的な価値が非常に高く、当時の“ハイテクノロジー集団”が存在していた証拠です。特に、鉄滓は鉄を精錬する際に出る不純物ですので、この地で日本最古の製鉄が行われていた可能性があります。
また、集落の周りには二重の環濠が巡らされ、長さは1キロにも及ぶ巨大なものです。
時代は、前述の奈具岡遺跡と同じ、一世紀~二世紀ですので、邪馬台国時代よりも少し前となります。
この扇谷遺跡を居住地、兼工場、そして敵からの攻撃を防御する要塞として活用し、玉造工房・奈具岡遺跡と共に、丹波の国の最先端工業地帯の中心部を形成していたようです。
なお、同じような二重環濠の高地性集落は、邪馬台国・越前でも発見されています。現在の福井県鯖江市にある「弁財天古墳群」です。ほぼ同じ時代の同じような構造になっています。
詳しくは、以前の動画「日野川 日巫女の起源」をご参照下さい。
丹後半島の弥生時代の最先端文明は、鉄と玉造りに象徴されます。
1世紀から2世紀の丹後の国、2世紀から3世紀の高志の国へと受け継がれています。
ここで不思議なのは、九州や出雲に存在していなかった鉄製工具を使った玉造り工房は、突如として丹後半島に現れ、邪馬台国時代には突如として消滅している事です。
そして、越前の林・藤島遺跡や弁財天古墳へと引き継がれているのです。
農業の視点から見て、丹後の国に国力は無いので、越前を征服したとは考え難いでしょう。
高句麗や新羅から丹後に流れ着き、越前へ移動したのか? それとも、丹後と越前は異なる渡来人が流れ着いたのか?
丹後半島には、奈具岡遺跡、扇谷遺跡の他にも数多くのハイテク遺跡が見つかっています。
魏志倭人伝の二番目に大きい国として紹介されている投馬国。その実像は、邪馬台国と同様に謎に包まれています。丹後の国から出土する品々の先進性を見れば、この地が弥生時代の日本を代表する地域だった事は間違いなく、この地が投馬国の一部だったと比定するのは自然です。
弥生時代中期に突如、丹後半島に出現したハイテク工業地帯。さらに弥生時代末期には、邪馬台国・越前に広がって、巨大国家が出現する元となりました。
次回は、投馬国・丹後の王族の出現を、墳丘墓や古墳などから探って行きます。