工業に特化した超大国

 これまで、投馬国(丹後・丹波・但馬)についての弥生遺跡や伝説などについて調査してきました。この中で特に注目すべきは、丹後半島の超最先端技術です。日本最古の製鉄所が存在していた可能性が高いだけではありませんでした。製鉄から鉄製工具への加工、さらには、鉄器を使った玉造りまでを行うという、コンビナート的な役割を担っていました。

 今回は、投馬国(丹後・丹波・但馬)の弥生時代末期の総括です。

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投馬国の農業

 まず、投馬国の農業の様子です。

全体的に、山間部が多く、平野部が少ないのが特徴です。

現代の状況からは、福知山盆地を始めとする丹波地方の盆地群に、水田稲作に適した広い平地が存在しています。ところが、河川の出口が極端に狭く、河床勾配が緩やかな為に洪水が多かったようです。その為、弥生時代においては、農業生産は安定せず、大きな収穫は見込めなかった事が分かりました。

 当時、安定した農業生産を得られたのは、但馬の国・豊岡盆地です。

ここは、淡水湖跡の沖積平野で、比較的安定した収穫が得られていたと思われます。

 丹後半島では、現在の京丹後市の盆地と、「天橋立」がある加悦谷(かやだに)平野に、ある程度の平地が存在します。

 但し、いずれも面積はごく僅かで、弥生時代の水田稲作平野は、限られていたようです。

 農業生産という点では、強力な大国が存在していたとは、到底考えられません。

 

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投馬国の工業は丹後半島が中心

 投馬国の産業では、丹後の国が突出していました。

弥生時代後期では、丹後半島コンビナートと呼ばれるほどの、日本一の最先端技術を持った地域でした。

 玉作りでは、奈具岡遺跡に見られるように、ガラスや水晶を加工した管玉・勾玉の類が大量に出土しています。また、加工工具に用いられた鉄製工具も自家生産されており、これを作るための鍛冶場跡も発見されています。そして、二世紀の鉄器の出土量は、九州・出雲を抜いて、丹後の国が最も多くなっています。これは邪馬台国よりも少し前の時代ですが、その後、越前の林・藤島遺跡という強力な玉造遺跡へと継承されたと考えられます。

 一方、扇谷遺跡では、鉄滓(てっさい)、鉄製工具類、機織り部品などの非常に価値の高い出土品があります。確実に当時の“ハイテク集団”が存在していた証拠です。

 特に、鉄滓は鉄を精錬する際に出る不純物ですので、弥生時代に、この地で日本最古の製鉄が行われていた可能性があります。

 但し、製鉄所が存在していたという事は、丹後半島は単なる工業地域として搾取されていたのかも知れません。それは、古代の製鉄所は、国を滅ぼしてしまう非常に危険な工場だからです。詳しくは、以前の動画をご参照下さい。

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丹後半島の伝説

 投馬国での伝説は多種多様です。渡来人伝説ではアメノヒボコ伝説があり、三韓征伐の神功皇后の祖先とされています。また、高志のツヌガアラヒトと同一人物とされていますので、投馬国と邪馬台国が密接に関連していた事を裏付ける伝説です。

 一方、丹後半島には、「浦島太郎」や「羽衣伝説」など、現代にも広く語り継がれている御伽噺もあります。日本全国に同じような話がありますが、投馬国が原点です。これらの御伽噺も、日本海側であればこそ成り立つ物語で、中国大陸との直接の結びつきを連想させるストーリーになっています。

 魏志倭人伝には、投馬国について、こう記されています。

「南至投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸」

 五万余戸とは、邪馬台国に次ぐ規模の国家です。農業の観点からは、丹後・丹波・但馬が、超大国だったとは言えません。しかしながら、弥生時代後期の技術レベルでは、超最先端だった事は間違いなく、邪馬台国・越前をも凌ぐ地域だったようです。

 次回からは、投馬国・但馬を出発して九州・不弥国へ至るまでの諸国の様子を調査します。