丹波の国は遺跡が皆無

 投馬国は、飛鳥時代からの行政区分で但馬、丹波、丹後の三国に分かれました。この中で、丹波の国が最も面積が大きく、現代の人口も多いので、中心地だと思われがちです。また、現代の「日本海側が遅れている」という先入観から、日本海に面した丹後や但馬の方が、文化の流入が遅かったという印象を持ってしまいます。

 ところが、弥生時代の遺跡を調査してみると、丹波の国からは、ほとんど特筆すべき出土品はありません。当時としては、丹後や但馬に大きく後れをとった辺境の地、すなわち後進地域だったという姿が見えてきます。

 今回は、投馬国・丹波の全体像を検証します。

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邪馬台国から丹波の国への道程

 まず、目的である邪馬台国・越前から、投馬国までの陸路を再確認します。

前回までに、越前から若狭を通過して投馬国・丹後に入り、そこで見つかった遺跡などを検証しました。今回は、舞鶴市近郊から、山間部に入り込んで行きます。

 由良川という川を遡ると、京都府福知山市北部に入ります。ここは、飛鳥時代の行政区分では「丹波の国」となります。

この丹波の国の弥生時代の状況を調査しました。

 なお、当然ながら邪馬台国時代には、このような行政区分は無く、丹波は投馬国の一部でした。

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丹波の主な平地

 邪馬台国・越前からの陸路で、投馬国・丹後に入った後、丹波の国の北側をかすめるようなルートを辿ります。

 丹波は、現代の都道府県区分では京都府と兵庫県にまたがっており、中国山地の盆地から形成されています。大きく三つの盆地地域に分けられます。福知山盆地、篠山盆地、亀岡盆地です。

これらの盆地は異なる河川水系に属していて、異なる海域へ流れ出しています。それぞれ、若狭湾、瀬戸内海、および京都盆地経由で大阪湾です。

 このため、丹後の国という一つの文化圏ではなく、三つの文化圏と見るべきでしょう。

今回、投馬国を検証するに当たり着目すべきは、日本海文化圏である福知山盆地のみとなります。

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丹波の農業は壊滅的

 農業の観点からは、これら三つの盆地は、淡水湖跡の沖積層で、水田稲作には適しています。しかしながら、河川の出口が極端に狭く、河床勾配が緩やかな為に、洪水が多く、古代に於いては幾度も水没していたようです。

 福知山盆地についても、一万年以上前に一旦は淡水湖の水が引いたようですが、縄文時代から近世まで、洪水によって何度も淡水湖に逆戻りしていました。

 そのため、弥生時代の農業は、盆地の広さの割に、水田稲作による安定した収穫は上げられなかったと考えられます。

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丹波の弥生遺跡はほとんど無い

 このように、福知山盆地を始めとする丹波の国は、弥生時代の国家が成立するには、あまりにも不安定な地域でしたので、発見された遺跡もごく僅かです。しかも、特徴的な遺跡もありません。

 福知山盆地の弥生遺跡では、半田遺跡と豊富谷丘陵墳墓群(とよとみだにきゅうりょうふんぼぐん)があります。

 半田遺跡は、縄文時代から古墳時代に掛けての集落跡で、土器や石器類が出土しています。

また、豊富谷丘陵墳墓群(とよとみだにきゅうりょうふんぼぐん)は、この半田遺跡の住民たちのお墓と見られます。丘陵地に小さなお墓が100基ほど連なっているのが特徴です。出土品は、土器や鉄器が数点ある程度です。

 なお、篠山盆地や亀岡盆地についても、同じように弥生時代の遺跡は少なく、丹波の国に大きな勢力があったという痕跡は見つかっておりません。

 飛鳥時代に、丹波の国から「丹波」と「丹後」に分割されました。これはあたかも、内陸部の丹波の国が主役だったかのようなだったかのような印象を受けてしまいます。ところが、弥生時代の遺跡を見ると、明かに丹後が主役です。丹波は脇役どころか舞台に上がる事すら出来なかったような地域でした。

 投馬国・丹後が、北部九州、出雲や、邪馬台国・越前に匹敵する弥生遺跡の宝庫に対して、丹波は、越後以北のような弥生文化の不毛の地だったようです。

 次回は、邪馬台国から投馬国への行路の終点・但馬の国について調査、検証します。