投馬国・丹後は、弥生時代の個性的な遺跡が豊富にあります。
前回は、鉄器や玉造工房を中心としたハイテク遺跡を紹介しました。
今回は、墳丘墓に焦点を当てます。邪馬台国よりも前の時代には、出雲や高志では「四隅突出型墳丘墓」が造成されていました。ところが、投馬国では発見されておりません。代わりに「方形貼石墓」という類の墳丘墓が造成されています。また邪馬台国時代には、他の地域には見られない副葬品が収められた墳丘墓が発見されています。
投馬国・丹後の個性的な遺跡群は、邪馬台国・越前の原点と言えるかも知れません。
この地図は、出雲から高志の国までを示しています。
邪馬台国以前の弥生時代中期に発見された墳丘墓を大別しますと、出雲型の四隅突出型墳丘墓、
高志型の四隅突出型墳丘墓、そして投馬国・丹後を中心とした地域の方形貼石(ほうぎょうはりいしぼ)に分類されます。方形貼石墓は、その名の通り、長方形のお墓の表面に貼石がしてある墳丘墓です。古墳時代の方墳の原型とも言われますが、形に個性がありません。そのため、中国や朝鮮からの影響か、投馬国独自に始まったものか、特定は困難です。
いずれにしても、出雲へ流れ着いたボートピープルや、高志へ流れ着いたボートピープルとは一線を画した人々が住んでいたのは確かなようです。
丹後の国には11個の方形貼石墓(ほうぎょうはりいしぼ)が発見されています。
その多くが、「天橋立」がある加悦谷(かやだに)平野で発見されています。この平野は僅かな広さしかありませんが、丹後では最も広い土地です。地質は扇状地なので水田稲作には適していません。それにも関わらず、3000基もの古墳が見つかっているという不思議な場所です。
方形貼石墓(ほうぎょうはりいしぼ)で最も大きいのは、日吉ヶ丘墳墓です。同じ時代では、九州・吉野ヶ里遺跡の墳丘墓が最大で、それに次ぐ日本で二番目の規模です。
出土品は、管玉が全国最多の677個も発見されています。また、墓の中には大量の「丹」が撒かれていました。丹は硫化水銀から成る赤い顔料で、弥生時代の貴重品です。丹後・丹波の地名の通り、この周辺で「丹」が多く産出されたのでしょう。
邪馬台国・越前も、同じ時代の墳丘墓に多くの「丹」が撒かれており、「丹生」という地名が残っているという共通点があります。
加悦谷(かやだに)平野では、方形貼石墓(ほうぎょうはりいしぼ)だけではなく、その後の時代、すなわち、邪馬台国時代にも、特筆すべき墳丘墓が発見されています。
大風呂南一号墓です。
弥生時代末期の大風呂南一号墓もまた、加悦谷(かやだに)平野にあります。
このお墓は、二世紀~三世紀という、まさに邪馬台国時代の墳丘墓です。
出土品が衝撃的で、日本で唯一のガラスの釧(くしろ)が出土しました。透き通るような鮮やかなコバルトブルーの色合いと、断面が5角形という、超個性的な腕輪です。
これは、中国産のアルカリ珪酸塩ガラス、いわゆるカリガラス製で、日本最大の大きさです。そして、コバルトブルーの着色は、鉄を用いて行なうという珍しい手法が使われていたようです。
中国で原料となる鉱石を溶解した後、日本に運び込まれたと考えられています。
また、その他にも勾玉、青銅の鉤(かぎ)付き釧、11本の鉄剣などが出土しました。鉄剣は、9本が初めから柄が付けられておらず、何か他の鉄製品を作るための材料だった可能性もあります。
邪馬台国時代の出土品としては、九州や出雲には無い特殊なものばかりです。
このほか、丹後半島の大田南5号墳からは、特別な銅鏡が見つかっています。三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡のような、価値の低い銅鏡ではありません。日本で出土した中では最古の紀年「青龍三年」(西暦235年)の銘を持つ「方格規矩四神鏡」 (ほうかくきくししんきょう)です。
魏志倭人伝に記載のある、西暦239年の卑弥呼の使者が魏から貰い受けた可能性が非常に高い銅鏡です。但し、投馬国・丹後は、邪馬台国・越前と同様に青銅器の出土は少なく、少ないながらも価値の高い青銅器が出土しているのが特徴です。
このように丹後の国からは、鉄器類、ガラス類、丹、水晶など、弥生時代後期の最先端文明を物語る様々なものが出土しています。
一方、農業の観点からは、大国になる為の農業生産を上げられる平野はありません。
これをどう解釈するのでしょうか。
同じようなケースは、高志の国・糸魚川にもあります。農耕地は狭いけれども、闇に葬られた「翡翠」の鉱脈が眠っていました。
もしかすると丹後の国にも、闇に葬られた水晶の鉱脈、カリガラスの原料の鉱石、丹(硫化水銀)の鉱脈などが眠っているのかも知れません。