狗奴国の中心地

 邪馬台国から投馬国へ至るまでの地域を調査しています。前回は、越前を出発してから最初の異国となる若狭を調べました。若狭には、弥生時代の特徴的な遺跡は無く、古墳時代から中国大陸との窓口となっていた事が分かりました。

 今回は、近江の国を調べました。邪馬台国から投馬国への直接の通過点にはなりませんが、若狭の国とは地理的・文化的に近い事や、日本の歴史上で常に表舞台に登場していた「琵琶湖」を有している事からです。

 邪馬台国近江説が飛び出した事もありますので、弥生遺跡が豊富な地域です。

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琵琶湖の水位

 まずは、近江の国を地学の視点から見てみます。真ん中に琵琶湖があり、水面の標高は約85メートル、最大水深は、約105メートルです。水深がかなり深い事から、元々急峻な谷のような場所に出来た湖です。その為、この水を抜いたとしても平らな沖積平野にはなりません。

 また、内海ですので、縄文海進の影響はありませんでした。縄文時代から弥生時代の水位は、今よりずっと低い位置に水面があったようです。これは、現在の琵琶湖の水面下に、縄文遺跡や弥生遺跡がいくつも沈んている事から、明らかとなっています。

 弥生時代に絞って見てみましょう。稲作文化が伝来して、湖畔の低湿地帯に水田が開かれました。ところが、水位上昇によって折角拓いた農耕地が湖に飲み込まれてしまいました。もちろん、新しい水田も拓かれてはいましたが、大きな勢力になるだけの農業生産は見込めなかったでしょう。

 一方、琵琶湖の南東部には、河川による沖積平野が広がっていたので、ある程度の農業生産はあったようです。

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近江の遺跡

 弥生時代の特徴的な遺跡は、琵琶湖南東部の沖積平野に集中しています。野洲川の流域です。

伊勢遺跡や下之郷遺跡などの、大規模集落跡が見つかっており、「邪馬台国近江説」も飛び出すほどの個性的な遺跡群です。円周上に配された祭殿群と、中心に厳重に区画された宮室や楼観があります。確かにユニークで、ある程度の規模は有していますので、大国であった事は間違いないでしょう。

 玉造工房も多く見つかっています。市三宅東遺跡(いちみやけひがしいせき)や烏丸崎遺跡(からすまざきいせき)などです。勾玉や管玉、および玉造用の工具類が多量に出土しています。高志の国と同様に、宝石作りは重要な産業だったのでしょう。通貨の無かった時代において玉類は、「お金」の役割を果たしていたのかも知れません。

 但し、近江の国の玉造り工具は、瑪瑙などの石器が使われていますので、鉄製工具を使っていた日本海側の地域よりは、はるかに遅れていました。

 また、奈良や大阪の弥生遺跡と同様に、鉄器類の出土は極めて少なく、鉄器を製作する為の鍛冶場の遺跡も見つかっていません。

 農業の視点からも、野洲川という河川による沖積平野ですので、農業生産は限られており、淡水湖跡の沖積平野のような超大国になるだけの国力を備えていたとは、考え難いでしょう。

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近江北部は古墳時代から

 若狭の国に接する北部地域の弥生遺跡は、ごく僅かです。小規模な玉造遺跡や、普通の弥生土器が出土するくらいです。

 近江の国の北部が、歴史の表舞台に華々しく登場するのは、古墳時代中期からです。

高志の国・越前の大王・継体天皇が、近畿侵略に向けて高嶋の地を拠点にしてからです。若狭の国から峠一つ越えただけの、軍事拠点としては最高の場所だったからです。この地には、鴨稲荷山古墳の金銅製の冠などが出土しており、若狭の国の十善の森古墳と並んで、古墳時代の近畿征服の拠点だった事が分かります。詳しくは、以前の動画をご参照下さい。

 近江の国は、邪馬台国→投馬国 の行路には入りませんが、興味深い地域です。

 邪馬台国を越前と比定すれば、その南に位置する近畿地方は、ライバル・狗奴国となります。狗奴国は、奈良や大阪だけとは限らず、琵琶湖南部地域も含んでいたのかも知れません。畿内説の本命・纏向遺跡は、まやかしの年代操作がなされていますし、唐古・鍵遺跡は奈良湖に幾度も水没しています。それらを考慮すると、近江の野洲川流域こそが、狗奴国の中心地だった可能性もあります。

 次回は、いよいよ投馬国に入ります。「トウマ」という発音が、「タンマ」という地名から来ている場所です。