世界最古の玉造り

 邪馬台国が存在した弥生時代を突き詰めて行くと、一つ前の時代・縄文時代の状況を無視しては何も語れないでしょう。

 そもそも、縄文時代 → 弥生時代 という区分自体が怪しいもので、狩猟時代 → 農耕時代 という単純な図式で表現できるものではありません。

 今回は、世界最古の玉造りが7000年前の縄文時代の日本で始まっていた事実を紹介します。

「縄文時代を温ねて弥生時代を知る」の精神です。

黄河文明・長江文明の黎明期の日本列島の状況ですので、日本人が太古の昔から最先端の技術を持っていた事の証しとなります。

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世界最初の通貨経済

 玉造り、すなわち石を加工して微細な形状を削り出す技術が、7000年前の日本列島に存在していました。これは、世界で最も古い玉造りです。

 新潟県糸魚川市の大角地遺跡と、福井県あわら市の桑野遺跡からの出土品が、その事実を物語っています。同じ時代の中国では、黄河や長江の流域で文明が起こった黎明期ですので、日本人がいかに古い時代から繊細な技術を持っていたかが分かります。

 また、この時代の玉造りは、装飾用として作られたとする説が一般的のようですが、私は、お金の役割を果たしていたと見ています。

 つまり日本人は、原始時代の物々交換から通貨経済へと進化した世界で最初の人種、という事です。

 なお、中国遼寧省の査海遺跡でも同じ時代の玉造りが行われています。ここは、黄河・長江と並ぶ遼河文明の中心地です。

 日本列島の玉造りと、どちらが古いかは、地層の年代や、科学的なAMS法による高精度の年代測定などを用いられていますが、7000年前の年代差は、誤差の範囲だそうです。

 そんな事よりも、ほぼ同じ時代に日本列島と中国大陸に同じような玉造りが始まっていた事、そして、この査海遺跡の位置が朝鮮半島の付け根の場所にある事もまた、とても重要な意味があります。それは、縄文人が日本海を渡って、中国大陸で玉造りを行っていた可能性が高いという事です。

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太古の年表

 日本の玉造りの歴史がいかに古いかを、年表にして示します。

まず、黄河・長江・遼河文明は8000年前頃からです。

日本の玉造り遺跡は、大角地遺跡、桑野遺跡とも、7000年前頃。これは、縄文海進が起こっていた頃の地球温暖化の時代です。

 一方、中国の査海遺跡も7000年前頃と推定されています。

 隠岐の島の黒曜石が発見されたウラジオストクの遺跡が4000年前で、その頃、環日本海地域は縄文人が支配していたと推測されます。そして邪馬台国は1800年前に存在していた、となります。

 縄文遺跡の有名な所では、大規模集落跡のあった青森県の三内丸山遺跡が5500年前~4000年前、世界最古の出土品が多い福井県若狭町の鳥浜貝塚は12,000年前〜5,000年前となります。

 なお中国の査海遺跡からは、三内丸山遺跡と同じ形状の円筒土器が、出土しています。

 また鳥浜貝塚の6000年前の地層からは、査海遺跡と同じ玦状(けつじょう)耳飾りが、発見されています。

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北陸地方が世界最古

 地図で見ると、それらの分布に偏りが見られます。大角地遺跡は翡翠硬玉の産地である新潟県糸魚川市、桑野遺跡は瑪瑙や凝灰岩の産地である福井県あわら市にあります。共に雪深い北陸地方です。

 これら二つの遺跡は、石の産地だったから玉造りが始まったという単純な理由ではないでしょう。石を加工して、それを装飾品やお金として使うという「需要」があったからこそ、石の加工が始まったに違いありません。なぜなら、ただの原始人であれば、野生動物と同じで、その日その日の食料調達に必死で、石を加工している余裕など無いはずです。しっかりとした「縄文文明」とも言える、世界初の通貨経済が、この北陸地方で始まっていたと考えられます。

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朝鮮半島は縄文人が支配

 一方、中国の査海遺跡は、朝鮮半島の根元の遼寧省にあります。ここは、遼河(りょうが)文明が起こった地域で、一説では黄河文明よりも古い12,000年前から存在していたとされています。

また、時代を下って2000年前の弥生時代にはこの近くに四隅突出型墳丘墓の原型がありました。1500年前には高句麗が倭の軍勢を打ち破った事の記載のある「好太王碑」がありました。

 話がややこしくなってしまいましたが、何が言いたいかというと、縄文時代から古墳時代までのこの地域は、縄文人を祖先とする日本人が住んでいた可能性が高い地域という事です。

 大角地遺跡や桑野遺跡の玉造りを行っていた縄文人達が、日本海を渡ってこの地で玉造りを始めた可能性も考えられます。

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7000年前から日本海巡回航路

 また、5000年前の三内丸山遺跡と同じ形状の円筒土器が、この査海遺跡で発見されたり、査海遺跡と同じ玦状(けつじょう)耳飾りが、6000年前の鳥浜貝塚で発見されています。

 これは、縄文人たちが6000年前には環日本海地域を支配し、中国大陸との相互交流が行われていた事の証明にもなります。

 なお、隠岐の島の黒曜石が発見されたウラジオストクの遺跡は4000年前ですので、さらに3000年も遡って、縄文人たちが日本海を縦横無尽に航海していたという事です。

 もう一歩踏み込んで、黄河文明や長江文明の黄金期には、縄文文化が大きく影響を与えたのではないか、と推測する研究者も存在しています。

 環日本海地域の縄文文化・玉造文化は、考古学学会で発表されています。私の場合、邪馬台国時代から遡って縄文時代を見つめていましたが、縄文時代の専門家の間では、既に認知度の高い学説のようです。

 一方で、弥生遺跡の宝庫である北部九州からは、特筆すべき縄文遺跡はありません。縄文時代の中国大陸との交流には、玄界灘を渡る航路よりも、日本海巡回航路の方が主役だったのでしょう。これは、北部九州には縄文時代からの基礎的な技術力が無かった事を意味します。

 現代にも通じる事ですが、技術力は積み重ねで進化して行くものです。弥生時代に超大国が出現したとすれば、農業に適した土地であると同時に、縄文時代からの技術が蓄積された地域であると考えます。