謎の渡来人

 魏志倭人伝の中には、魏から倭国へやって来た使者として「張政」という人物が記されています。

その当時の倭国・日本では、女王国がライバル・狗奴国と戦争状態になりました。それを中国・魏へ伝え、派遣されてきたのがその人物です。女王の都・邪馬台国の土を踏んだかどうかは、文面からは読み取れませんが、女王國の端っこの九州あたりまでは来たと推測できます。

 今回は、魏からの使者・張政という謎の渡来人を、邪馬台国と関わりのある人物から比定します。

パト00
卑弥呼のSOS

 魏志倭人伝の中には、中国・魏の人物が何人も登場します。その中で、倭国・日本にやって来たであろう人物がいます。「張政」という名前で、朝鮮半島の魏の領土だった帯方郡の役人です。

 彼が倭国にやって来たいきさつを、魏志倭人伝の記述に従って追いかけて行きます。

その記述があるのは倭人伝の最後の方で、女王國が敵対国である狗奴国との間で、戦争状態となり、魏に助けを求めたところから始まります。

 「倭女王卑彌呼 與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状」

倭の女王・卑弥呼は。狗奴国の男王・卑彌弓呼(ひみここ)と和せず。倭の載斯烏越(さしあえ)らを派遣して。帯方郡に詣で。戦争状態であることを説明した。

 この卑弥呼の説明は、魏の国に女王國を助けてほしいという援助のお願いだったようです。

パト01
謎の渡来人

 卑弥呼からの連絡に対して、魏は次のような援助を行いました。

 「遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢 拝假難升米 為檄告喩之」

塞曹掾史(さいそうえんし)の張政らを遣わした。張政は詔書や黄幢(こうどう)をもたらして。難升米に授けた。檄文をつくり、告げて諭した。

 つまり、塞曹掾史(さいそうえんし)という役職の「張政」という人物たちを派遣して、魏の皇帝の詔や、黄幢(こうどう)という黄色い旗を倭国大使・難升米に渡し、激励した。という事です。

 ここで、黄幢(こうどう)という黄色い旗は、日本で言うところの「錦の御旗」のようなものだったと想像します。戦いの際に、この旗を掲げる事で、自分たちが中国・魏のバックアップを受けている正規の軍隊であると、高らかに宣言する役割があったのでしょう。

パト10
檄を飛ばす

  その後、卑弥呼が亡くなり、径百餘歩のお墓を作ったという記載があり、倭国が再び戦争状態になったという記述があります。そして、卑弥呼の宗女・壹與が王となり、倭国に平和が戻った、とされています。

 壹與が王様になった際にも、張政が登場します。

 「復立卑弥呼宗女壹與 年十三為王 國中遂定 政等以檄告喩壹與」

ふたたび卑弥呼の宗女・壹與を立てる。十三歳の王様である。国中が遂に安定した。張政たちは檄をもって壹與に教え諭した。

 つまり、新しい女王・壹與の即位に際して、張政ら魏の役人たちが、檄文を渡して壹與を励ましたようです。壹與の人物像が描かれていないところを見ると、おそらく文書を女王國の使者に渡しただけで、実際には会っていないのでしょう。

パト20
壹輿が見送り

さらに、張政が帰る際の記述もあります。

 「壹與遣倭大夫 率善中郎將 掖邪拘等二十人 送政等還」 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹」

 壹與は大夫。率善中郎将。掖邪拘(えきやく)ら二十人を派遣して。張政たちが帰るのを送らせた。と記述されています。率善中郎将や掖邪拘というのは、魏の皇帝が女王國の使者・難升米たちに与えた称号です。

つまり、張政たちが帯方郡へ帰る際には、女王國の使者・難升米たちが同行して海を渡ったという事です。

その際に、壹與の朝貢として、翡翠の勾玉などを魏の皇帝に献上しています。

パト11
伊都国までか?

 このように、魏からの使者・張政は、倭国・日本にまでやって来た記述になっています。おそらく、女王國の西の端・伊都国、現在の福岡県糸島市、あたりまでは、確実に来ていたと思われます。女王の都・邪馬台国まで来ていたかどうかは、魏志倭人伝の文面からは分かりません。

パト21
係長?

  張政の役職としては、帯方郡の役人でした。巨大な中国の魏の国の中では、朝鮮半島の帯方郡などは、東のはずれの、かなり辺境の地です。

 現代のアメリカ合衆国で例えるならば、サイパン島を中心とする北マリアナ諸島自治連邦区のような存在です。張政はそこの、外交担当係長程度のショボい存在だったと思われます。1800年前という稚拙な海洋航海技術しかなかった時代ですので、倭国という辺鄙な国までやって来るというのは命がけです。重要なポストにいた人物が、そんな危険を冒してまで、倭国に赴いたとは思えません。

 さてこのような謎の渡来人・張政ですが、現代の邪馬台国にそのような人物がいるのでしょうか?

 

色々調べてみると、いました。結構有名な渡来人です。

パト30
パックン

 謎の渡来人の名は、パトリック・ハーラン氏です。

お笑いコンビ「パックンマックン」のボケ担当・「パックン」です。というよりも、現在は様々なテレビ番組でタレントとして活躍していて、見ない日はないくらいですね。

 このパックン、実は邪馬台国へやって来た渡来人だったのです。

パト30
苦労人

 パトリック・ハーラン氏の略歴です。

1970年 アメリカ合衆国コロラド州生まれ

ウィキペディアによると、彼はかなりの苦労人のようです。

7歳の時に両親が離婚。母子家庭で育ったため家計が貧しく、10歳から高校卒業まで新聞配達をして家計を助けていたとの事です。高校時代には水泳部や演劇部に、大学時代はグリークラブに所属していました。スポーツ万能で、大学時代には床体操、板飛込み、バレーボール、陸上競技、自転車などをやっていたそうです。

1993年 超名門・ハーバード大学卒業後、来日。

どういうわけか、邪馬台国・越前にやって来て、一般家庭にホームステイしていました。

邪馬台国では、高校の英語教師をしながら、演劇活動なども行っていたようです。

その後、東京へ引っ越し、「パックンマックン」という漫才コンビを組み、現在の売れっ子タレントになりました。

パト32
福井地図

 この地図は、邪馬台国・越前の拡大図です。右はしに卑弥呼の墓があります。そこから1キロ離れたところに、卑弥呼の出身中学校があります。卑弥呼の弟は、この辺りで生まれ育ちました。卑弥呼の侍女1000人は、この高校のチアダンス部です。

卑弥呼の宗女・壹與の選挙事務所は、この位置です。卑弥呼および卑弥呼の使者・難升米が卒業した名門高校は、この場所です。

 謎の渡来人・パックンは、最初にこの場所に赴いたと思われます。邪馬台国が渡来人たちを迎える為に作った「国際交流会館」と呼ばれる施設です。卑弥呼の出身中学からは、わずか300メートルしか離れていません。

 また、パックンが英語教師をしていた高校は、この場所です。この辺、密集していますね。

パックンはホームステイをしていたそうですが、おそらく、卑弥呼と同じこの地図のどこかに住んでいたのでしょう。

 なおパックンは、全く日本語を話せなかった頃に、邪馬台国でお世話になった事に恩義を感じ、現在でも福井県のブランド大使を務めているそうです。

 魏志倭人伝に描かれている謎の渡来人・張政は、パトリック・ハーラン氏でした。

 このシリーズでいつも感じる事ですが、卑弥呼の墓の周辺は、やはりパワースポットだと思います。弥生時代には日本で最も多くの人口を抱えていた地域ですが、現代では人口密度の低い閑散とした場所です。その中で色んな分野での有名人がこの地域に密集しています。パックンにしても、元々才能はあったし並外れた努力もあったのでしょうが、芸能界で生き抜くには、かなりの運も必要です。やはりここには、何かがあるのでしょう。

 今度、卑弥呼の墓へ行くときには、しっかりと頂上まで登って、コッソリ「卑弥呼の土」を持ち帰ろうと思っています。