掘れる陵墓 今城塚古墳

 全国各地に数多くの巨大古墳がありますが、そのほとんどは発掘調査されていません。

一つには、研究目的という興味本位の発掘が制限されている事。

もう一つには、天皇家の陵墓とされる古墳は、宮内庁の縛りがある為、立ち入れない事です。

そんな中で、唯一発掘調査が行われている陵墓があります。しかも神話などではなく、現存が確実視されている最も古い天皇の陵墓です。

 今回は、大阪府高槻市にある今城塚古墳の発掘について、詳細を紹介します。

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初代天皇の墓

 古代遺跡の発掘調査で、もっとも注目されているものの一つが今城塚古墳です。

これは、大阪府高槻市にある全長190メートルの前方後円墳で、六世紀中ごろに作られたとされています。被葬者は、謎の大王と呼ばれる継体天皇です。文献史学上、近畿地方以外から天皇になった唯一の人物で、北陸・越前に出自を持ちます。

 日本書紀によれば、越前の大王だった男大迹王(をほどのおおきみ)を大伴金村らが招聘して皇位につかせたとされています。また、第二十六代の天皇ですが、実在が確認されている最も古い天皇です。つまり、大和朝廷における実質上の初代天皇という事です。それだけに発掘調査からは、豪華な品々が発見されています。

 継体天皇に関する詳細は、以前の動画で紹介していますので、ご参照下さい。

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宮内庁の陵墓のすぐ近く

 天皇の陵墓の発掘は、普通はできません。宮内庁によって厳しく管理されているからです。

ところがこの今城塚古墳だけは自由にできるのです。宮内庁が継体天皇は謎が多すぎるから、差別したのでしょうか?

そうではありません。非常に運が良かったのです。

  この地図は、大阪府高槻市周辺を拡大したものです。右上の前方後円墳が今城塚古墳です。

 宮内庁は継体天皇陵として、この今城塚古墳から1.2キロメートル西にある大阪府茨木市の太田茶臼山古墳を継体天皇陵に指定しているのです。ところが、この古墳の築造時期が五世紀中ごろである事が明確になり、継体天皇が亡くなった時代よりも100年も古い事が分かったのです。

 一方、今城塚古墳の方は該当する天皇がいないとされ、高槻市の所有となっていたのです。つまり、宮内庁のお伺いを立てずとも、高槻市の判断だけで発掘調査が可能だったという事です。

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樟葉野宮の近く

 ちなみに、この地域の古墳が継体天皇のものだとした理由は、築造時期だけではありません。よく知られているように、大和王権の初期の頃は、大仙古墳がある百舌鳥古墳群や奈良盆地南部の古墳群が中心地でした。そんな中で、越前から近畿地方を侵略した継体天皇勢力が、最初に都を置いたのが樟葉野宮でした。大阪府枚方市です。ここを流れる淀川を中心に何度も都を移しています。つまり、奈良盆地の南部の大和川水系にあった大和王権から、淀川水系一帯へと主導権が移した天皇だという事です。そのため、古墳の所在地や築造時期などを根拠に、この今城塚古墳を継体天皇陵だと認める研究者が多数を占めています。

 一方で、宮内庁はプライドが高いせいか、研究者たちの意見を受け入れずに後追い指定を見送っいますので、その事がかえって自由な発掘調査へとつながっているのです。

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今城塚の特徴

 発掘調査は、1997年(平成9年)から毎年、高槻市立埋蔵文化財調査センターが行っています。

特徴は大きく3点あります。一つは、大量の埴輪が発見された事、二つ目は熊本産の石で作られた棺が発見された事、

そして棺の挿入形式が革命的である事です。

 まず、埴輪の出土ですが、形象埴輪が大量に出土しています。これは、人や動物、家形、四足動物などを形作った埴輪で120点近くが整然と並べられていました。

 次に、被葬者が収められていた棺が、熊本県宇土市産の阿蘇ピンク石だった事です。これは、継体天皇の在位時期に北部九州で「磐井の乱」と関わっていると考えられます。この反乱を鎮めて、九州地方から近畿地方へと持ち帰ったのでしょう。その当時は、稚拙な造船技術や航海術しかありませんでしたので、重い石を遠くまで運ぶのは非常に困難だったはずです。それを敢えて行う事で、継体天皇の権威を諸国に知らしめたのだと考えられます。

 最後に棺の挿入方法です。天皇家の古墳、すなわち陵墓の古いタイプの棺は、中央の頂上部から下へ下ろす形式が取られていました。ところが、この陵墓は横から挿入する方法が取られていたのです。陵墓の革命とも言える方法で、この後の陵墓では、すべて横から挿入する方法が取られるようになりました。継体天皇は越前から現れて、近畿地方を征服した大王ですので、日本海側の先進的な文明と共に、棺の埋葬方法も改められたのでしょう。

 大和朝廷の実質的な初代天皇と呼ぶにふさわしい人物の陵墓だと言えます。

 

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掘れる、入れる天皇の墓

 現在の今城塚古墳は、大阪府高槻市によってよく整備され、市民の憩いの場になっています。

「いましろ大王の杜」という名称で、古墳公園と古代歴史館が併設されています。

天皇のお墓でありながら、古墳の中を自由に歩きまわれる公園は、日本全国でここだけです。越前からやって来た実質上の初代天皇のお墓というだけでも、見る価値は高いと思います。

 また、高槻市では最先端技術を使って、古墳の調査も行っています。宇宙から届く素粒子ミュオンを利用して古墳の内部を非破壊で観測する実験です。これは2020年に始まっています。ミュオンの観測機も古墳公園に設置されていますので、古代の最先端技術だけでなく現代の最先端技術にも触れる事ができるのです。

 私は現在、卑弥呼の墓・発掘プロジェクトを推進していますが、この今城塚古墳は参考になりますね。

宮内庁の縛りがないものの、当初は民間の地権者がたくさんいて、50年掛けて高槻市の所有にしたそうです。

そのかいあって現在では、最も魅力的な古墳公園になったと同時に、素粒子ミュオンなどの新しい古墳調査にも取り組める下地ができたのでしょう。

 奇しくも私の比定する卑弥呼の墓は福井県(越前)にあります。継体天皇の出自のある土地です。

今城塚古墳と同じように、卑弥呼の墓も自治体が発掘してくれないかなぁ~。