未開の航路 瀬戸内海

 古文書に描かれた古代日本の様子は、矛盾だらけです。それは、時代考証がなされていないからです。

八世紀に書かれた古事記や日本書紀には、その500年以上も前の歴史が記されていますが、八世紀の技術レベルを前提に物語が構成されています。現代に例えるならば、500年前の室町時代の歴史に「飛行機やロケット」が登場するようなものです。

 そんな古文書の「あるはずの無いもの」の典型例が、瀬戸内海航路です。

今回は、神武東征などの物語を例に、瀬戸内海航路の【無理】を示します。

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神武東征のルート

 神武東征は、磐余彦(いわれひこのすめらみこと)という神が、日向の国・高千穂を旅立ち、近畿の土地へたどり着き、初代天皇に即位するまで物語です。

 航路は、

高千穂 → 日向 → 宇佐 → 岡田宮 → 埃宮(えのみや)→ 高島宮 → 浪速の津 → 熊野 → 橿原(かしはら)

 です。

 この航路では、瀬戸内海の難所として知られる三ケ所を通過しています。それぞれの潮流速度は、5.7ノット、9.4ノット、6.7ノットです。

いずれも日本の最も潮流速度の速い海域です。

これらの海の困難さなど、日本書紀のどこにも記されていないので、文献史学者は何の疑問も持たないのでしょう。波の穏やかな海域で優雅な船旅を楽しんでいた、くらいの解釈ですね。

 さらに、日本書紀の時代をそのまま信じれば、紀元前7世紀。これではあまりにも古いというので、紀元後3世紀、すなわち邪馬台国と同じ時期としています。まったく文献史学者はご都合主義ですね。

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神武東征の問題点

 使われた可能性がある船は、大型の船は無理ですので、一人乗りか二人乗りの丸木舟または準構造船です。これであれば、小回りが利きますので、入り江に逃れて座礁を免れる事はできるでしょう。

 ただし、何日もかけての旅ですから、途中で水や食料を補給する必要があるし、天気が悪ければ陸地で待たなければなりません。しかし、当時はそのような港は瀬戸内海には存在しませんでした。

 また、弱肉強食の弥生時代の事ですから、陸地に近づけば沿岸の住民から攻撃されます。沿岸には岩礁もあり、水先案内人(パイロット)が必要です。どうやって乗り越えたのでしょうか?

 さらには、近畿に到着してから神武天皇は、ニギハヤヒの命と戦ったとありますので、軍隊は少なくとも数百人はいたでしょう。そんな大人数が、小舟に分乗して、何日も掛けて瀬戸内海を渡ってきたなど、有り得ません。

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神武東征の元ネタ

 もし、神武東征が実際にあったとすれば、造船技術が進化した六世紀頃でしょう。日本書紀が書かれたのは八世紀ですので、それよりも200年前の物語です。現代に例えれば、200年前は江戸時代ですので、その時代に起こった事は昔話です。六世紀頃の昔話を、太古の昔・紀元前として大げさに記したものです。天皇家がいかに古くからあるかを装うために。

 私は、神武東征は、藤原氏一族の歴史と見ています。以前の動画、「神武東征は藤原氏の東遷」でも述べましたように、八世紀の権力者・藤原氏一族が、自らの出身地である九州からやって来た話なのです。

ちょうど六世紀には、継体天皇が北部九州で起こった磐井の乱を鎮めています。これを機に瀬戸内海航路が確実に拓かれました。藤原氏(旧・中臣氏)は、ヤマト朝廷に加担した九州の小豪族で、戦いの後に一緒に近畿地方へやって来たと考えられます。

 藤原氏は、そういう六世紀の自らの歴史を、神武東征という天皇家の歴史に置き換えて書いたのでしょう。

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神功皇后のルート

  神功皇后の三韓征伐の後の、帰路にも同じことが言えます。

神功皇后は、越前の敦賀から北部九州へやって来て、熊襲征伐を行い、対馬海峡を渡って、新羅、百済、高句麗の三韓を征伐した後、再び九州に戻り、瀬戸内海を通って近畿地方に戻ってきた事になっています。

 敦賀から北部九州へは、対馬海流を逆行するものの、潮流速度が瀬戸内海の十分の一程度である事と、一方向に流れているので、地乗り航法であれば十分可能です。同じように、朝鮮半島への渡航も、リマン海流に逆行するとは言え、

不可能ではありません。最大の矛盾は、やはり瀬戸内海航路ですね。神功皇后の時代は三世紀~五世紀と推測されていますので、神武東征と同じ理由で瀬戸内海を渡ってきたのは不可能です。可能性とすれば、行きと逆向きの日本海航路です。これであれば対馬海流の順方向になるので、海の高速ハイウェーとなります。敦賀へ戻ってから近畿に入る方が理に適います。

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邪馬台国 畿内説のルート

 邪馬台国・畿内説の瀬戸内海ルートも同じです。魏志倭人伝に記載のある不彌國からの「水行20日」「水行10日」を瀬戸内海ルートとした場合、明らかにおかしいですね。単に、古代の大型船では瀬戸内海を渡れないという事だけではありません。小舟を使った場合でも理屈に合いません。小舟の場合でも、瀬戸内海の激しい潮流変化を見ながら、難所の手前では入り江に入って何日も逗留する必要があります。「水行20日」「水行10日」などという、大雑把な行程はないでしょう。瀬戸内海の「津々浦々の様子」が記載されていなければ辻褄が合いません。

 一方で、日本海を進んだ場合はどうでしょうか。この場合は、対馬海流の順方向になりますので、沖乗り航法が可能です。すなわち、港に立ち寄らずに、海流の流れに任せたまま航海が出来るという事です。これであれば、投馬国や邪馬台国までの小さな国々の記載をする必要はありません。「水行20日」「水行10日」は、まさに日本海での沖乗り航法を示しています。魏志倭人伝を素直に読み解けば、瀬戸内海などではなく、日本海航路が理にかないます。

 これらのように、時代考証のなされていない古文書の記載や、邪馬台国・畿内説の我田引水には、大きな落とし穴があるという事です。しかし、七世紀の遣隋使の頃には、航路は開かれていたと考えられます。それは、考古学的な見地から、後進地域だった瀬戸内海にもようやく文化が伝来しているからです。

 瀬戸内海航路が開かれた時期としては、継体朝の六世紀に北部九州で起こった磐井の乱、あるいは、それよりも少し前の五世紀の雄略朝の頃ではないかと推測します。ただし、雄略天皇は神話の人物ですので、その時代に起こった事件の信憑性に欠けます。

 次回は、瀬戸内海航路はいつ開かれたかを焦点に、考察を進めます。