九州 vs 邪馬台国 三回の戦闘

  古事記や日本書紀から読み取る事ができる範囲で、九州勢と邪馬台国との間には、三回の戦闘が勃発しています。

 もちろん「邪馬台国」という記載はありません。しかし、弥生時代から古墳時代に掛けての経済規模や政治状況などを考慮すると、邪馬台国は「高志の国」と比定されますので、

 九州 vs 高志(邪馬台国) 

となります。三回の戦闘とは、

 熊襲征伐・八俣遠呂智・磐井の乱

です。

 今回は、これらの戦闘が起こった地域や時代背景について俯瞰します。

三回10
邪馬台国は九州と三回戦った

 九州勢力と邪馬台国とが戦ったのは、

1.高志の国・敦賀を拠点としていた神功皇后による熊襲征伐

2.高天原の須佐之男命と、高志の国との戦い。八俣遠呂智神話

3.九州・磐井勢力と、近畿地方を征服した高志の大王との戦い。磐井の乱

です。

 これらは、古事記・日本書紀に記されている出来事です。ご存知のように、記紀は天皇家のルーツを正当化する為に書かれていますし、編纂時の権力者・藤原氏一族の息の掛かった古文書ですので、時代関係や登場人物に多くの矛盾があります。

 ここでは、当時の政治状況を洞察しながら、戦いが起こった時代を特定します。

まず神功皇后は、卑弥呼あるいは卑弥呼の宗女・壱与がモデルとされる女傑ですので、熊襲征伐は、三世紀頃と推測されます。

 ヤマタノオロチは、天照大御神の弟・須佐之男命が主人公ですので、紀元前の出来事と思われがちです。しかし、邪馬台国・高志の国が出雲を植民地支配していたのは一世紀~三世紀頃ですので、実際には四世紀の出来事と推測されます。

 磐井の乱の時代は、かなり正確です。高志の大王・継体天皇が、近畿地方を征服した後の出来事ですので、六世紀前半の戦いです。

三回20
神功皇后

 一回目の戦いは、熊襲征伐です。

 古事記の記述では、神功皇后が越前敦賀の角鹿笥飯宮を拠点として、九州に向かったとされています。

以前の動画で考察しました通り、これは邪馬台国にあった伝承を元に作られた話で、高句麗・新羅・百済の三韓征伐を含む環日本海地域の支配強化と同時に、九州での動乱の鎮圧を目的として、行われた戦いです。

 時代としては三世紀頃ですので、丁度、卑弥呼や壱与がいた時代です。また、魏志倭人伝に記されている「倭国大乱」があった時期に重なりますので、卑弥呼や壱与が、この混乱を鎮めたという記述にも合致します。

三回21
熊襲征伐

 戦いのあった場所は、筑紫平野の「山門」周辺地域です。

弥生時代の北部九州は、大規模な農地は無く、ほとんどが扇状地や密林地帯でした。山門エリアはその当時、有明海に面していた沿岸部で、筑後川の堆積物によって平坦な沖積平野の拡大が進行していた場所です。水田稲作に適した平野が徐々に増えて行き、強力な新興勢力が出現したのでしょう。

 まさに、弥生時代という農業の拡大時期の新興勢力が、争いを起こした典型的な事例です。

 なお、この戦いに勝利した邪馬台国は、環日本海全域の支配を強固なものとしました。

三回22
八俣遠呂智

 二回目の戦いは、ヤマタノオロチ神話です。

 これは、高天原を追放された須佐之男命と、高志の国から現れる怪物・ヤマタノオロチとが、出雲の国で戦った神話です。古事記には「高志之八俣」と明記されていますので、ヤマタノオロチは、邪馬台国である事は自明です。一方、高天原という場所は、天照大御神をはじめとする神々が住んでいた場所で、古事記からは特定出来ません。ただし、天皇の祖先とされるニニギノミコトや、初代天皇とされる神武天皇が、九州・日向の国出身とされている事などから、高天原は九州勢力だとみるのが自然です。

 この戦いでは、九州勢力の須佐之男命が勝利します。これにより、邪馬台国の勢力は出雲から撤退したと考えられます。

 卑弥呼や壱与の時代には、九州や出雲を支配下に置いていた邪馬台国でしたが、徐々に勢力範囲が縮小して行ったのでしょう。

三回40
磐井の乱

 三回目の戦いは、磐井の乱です。

 六世紀初頭に、近畿地方で大革命が起こりました。高志の大王・男大迹王が、近畿地方を征服し、王朝交替が起こったのです。これは、後に第二十六代天皇として記紀に記されている継体天皇です。この王朝交替は、長年のライバル関係だった邪馬台国・高志の国と、狗奴国・近畿地方との争いにピリオドが打たれた事を意味します。

 巨大古墳の造成にうつつをぬかしていた後進国・近畿地方は、高志の国に征服された事によって、ようやく中国大陸の先進文明が流入する事になりました。

 ところが、それと同じ時期に、九州で反乱が起こります。磐井の乱です。

 環日本海地域の支配力が弱まっていた邪馬台国でしたが、朝鮮半島の新羅・任那・加羅の支配力再強化を目論んで出兵しました。ところが、九州の磐井一族の反乱にあい、失敗したという話が、日本書紀に記されています。

 九州勢力と高志の大王との戦いという点で、九州 vs 邪馬台国の三回目の戦いという事です。

三回41
磐井の乱の九州討伐

 なお、磐井一族は、筑紫平野の久留米や八女を中心とした地域の豪族です。

面白い事に、神功皇后の熊襲征伐の山門とは、農業の視点からは同じ条件の場所です。弥生時代には有明海の沿岸だった地域で、筑後川の堆積によって、天然の水田稲作に適した沖積平野が広がった場所です。

 熊襲征伐と磐井の乱は、古代勢力が、水田稲作とは切っても切れない関係にあった事を、如実に物語っています。

 熊襲征伐・八俣遠呂智・磐井の乱

という九州と邪馬台国の三回の戦闘が三世紀~六世紀に起こっていました。

 なお、八世紀に書かれた記紀は、日本最古の歴史書ではありません。六世紀に製紙技術を持った高志の大王が近畿地方を征服して以来、多くの歴史書が書き溜められました。しかし、七世紀の動乱期に藤原氏一族によって多くの書物が焼失させられてしまいました。そして、新たに書かれた歴史書が古事記であり日本書紀です。

 敵対勢力の蘇我氏一族(高志勢力)を悪者扱いして邪馬台国を抹殺し、九州勢力を主役とする神話で構成されています。

その中にも僅かに邪馬台国を匂わせる神話がありますので、今回の「九州 vs 邪馬台国 三回の戦闘」を紹介しました。