文献史学の欠陥 瀬戸内海航路

 古代史研究家というと、必ず小難しい古文書を読み漁って、物知り顔で大昔の日本を語りたがります。

古事記・日本書紀や三国志などの中国史書を読むことが、「古代史の基本」だと思っている輩だらけです。

 古代史書に完全無欠の教科書などありません。それどころか時代考証がなされていない為に、ありえない話で満ち溢れています。

今回は、文献史学の「そもそも無理」といえる事例の一つとして、瀬戸内海航路を示します。

そこは日本一航海の難しい海です。

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瀬戸内海は難しい

 現代において、近畿地方と九州地方を結ぶ船による海の道は、瀬戸内海ルートが主流となっています。日々、大型の貨物船が行き交う海の大動脈です。一方で、山陰沖を航行する日本海ルートは閑散としており、地名の通り「山の陰」という存在です。

 このように瀬戸内海が海の大動脈になっているのは、波の穏やかな内海だからでしょうか? 対する日本海が波の荒い外海だからでしょうか?

全く違います。単純に、神戸や大阪のような巨大な市場があるから。ただそれだけの理由です。

海の事を全く知らない人は、太古の昔から瀬戸内海が主要な航路だったと思っているようです。そこが、どれだけ厳しく困難な場所なのか、想像も付かないのでしょう。

瀬戸内海は、日本で最も難しい海域であると同時に、世界的にも有数の困難な海域なのです。

 造船技術、航海技術が高度に進んだ現代だからこそ、平気で船が行き交っている、それだけの事です。

 文献史学家という書物だけを心の拠り所にしている輩にとっては、瀬戸内海の困難さなど知るすべもありません。

古事記や日本書紀に書かれている神武東征や、遣唐使、遣隋使の瀬戸内海の旅を、何の疑問もなく受け入れてしまっています。

 では、瀬戸内海がどうして困難か、どれだけ困難かを示して行きます。

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瀬戸内海は海峡だらけ

  瀬戸内海は、関門海峡から、淡路島までの海域です。瀬戸内気候と呼ばれる穏やかな気候に恵まれている上に、大きな波は発生しないので、船で移動するには優しい海、と勘違いされています。

 現実には、日本で最も航海が難しい海です。それは簡単な理屈です。細い海峡が数えきれないほど存在しているからです。例えば鳴門海峡の場合、太平洋と瀬戸内海の海面の高さは同じにはなっていません。常に変動しています。瀬戸内海が高ければ左から右へ、太平洋が高ければ右から左へ、高速に潮の流れが起こります。これによって引き起こされる現象が、鳴門の渦潮です。つまり激しい潮流が起こっているのです。

 鳴門海峡に限らず、瀬戸内海の島々を縫うように走る「海の道」は、すべてが海峡といえる難所の連続なのです。

現代でこそ、造船技術や航海術が進化して慎重を期して航行できますが、古代の稚拙な船で、こんな海域を自由自在に行き来したなんて、ほとんど不可能です。

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瀬戸内海の潮流速度

  日本国内で潮流が最も速い場所は、鳴門海峡で、最高流速は10.5ノット(時速19.4キロ)に達します。次に、来島海峡の10.3ノット(時速19.1km)、第三位に関門海峡の9.4ノット(時速17.4km)と続きます。

さらに大畠瀬戸(おおばたけせと)6.9ノット(時速12.8km)、明石海峡6.7ノット(時速12.4km)、速吸瀬戸(はやすいのせと)5.7ノット(時速10.6km)など、ほぼ全域で高速潮流が発生しています。

 これらがどれだけ早いかというと、世界最高速度の海流で有名な、日本近海を流れる黒潮と比較するとよく分かるでしょう。

黒潮は、最大でも4ノット(約7.4km/h)しかありません。しかも流れる向きは一方向です。また、潮流のように反対方向に流れる事はありません。

つまり、瀬戸内海では黒潮よりも遥かに速い潮流が起こっている上に、流れる向きも一方向ではないので、船がのんびり浮かんでいようものなら、あっさり座礁してしまうのです。

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航海可能な古代船

 こんなに難しい瀬戸内海を、古代船で行き来できたかどうか。まずは船の性能から調べます。

 古代の船は、準構造船です。これは、丸木舟の上に波よけ用の板材を取り付けたものです。埴輪に見られるような船の形式は、すべて準構造船です。丸木舟を使わず、板材だけで船を作るようになったのはずっと後の室町時代からです。また風力を利用する帆船も室町時代からです。これは、帆柱を立てて風を受けた場合に、船の安定性が極端に悪くなって転覆してしまう為に、古代の技術では、建造する術が無かったのです。

 弥生時代には、手漕ぎで小型の準構造船、古墳時代には手漕ぎで少し大きめの準構造船が使われていたようです。

船が大きくなればなるほど、重量は重くなり、安定性は悪くなりますので、性能は、かなり稚拙なものでした。

こんな船では、瀬戸内海を航海する事など、到底不可能です。

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実証実験

 古代船による瀬戸内海航路の実証実験は、二回行われています。

1990年の大阪市主催による「なみはや号プロジェクト」と、2005年の熊本県宇土市主催による「大王のひつぎ実験航海事業」です。

 なみはや号プロジェクトについては、以前の動画で紹介ました通り、大失敗に終わっています。埴輪の船を復元して、大阪港から釜山港までを人力で漕いで行く予定だったのが、重すぎて全く進みませんでした。結局、瀬戸内海のみならず、すべての航路をディーゼル機関の船に引っ張ってもらったのです。あまりにもお粗末でした。

 大王のひつぎ実験航海事業は、六世紀の越前の大王・継体天皇の棺を、熊本県宇土市から大阪湾まで運ぶプロジェクトでした。なみはや号での失敗を教訓に、船を作る段階から大学の専門機関に依頼して、最新鋭の技術で古代船を建造しました。そのかいあって、無事に大阪まで到着する事が出来ました。実はこのプロジェクトでも大半はディーゼル機関の船に曳航されていたのですが、ここでの詳細は控えます。いずれにしても、現代の最先端技術で古代船を建造してもなお、瀬戸内海を古代船で進むことは簡単ではなかったという事です。

 神武東征や神功皇后などの古文書の記載を真に受けるなど、愚の骨頂です。

 古代に瀬戸内海を移動したとすれば、丸木舟や小型の準構造船です。あるいは、船を使わず四国山地を陸路で進む方法が、より合理的でした。

 九州と近畿を結ぶ古代船のホットラインは、瀬戸内海ではなく日本海です。冬の荒波をイメージする日本海ですが、船で進むには、とても優しい海なのです。

 古文書を真に受けて瀬戸内海航路が拓けていたと信じるのは、室町時代にダイヤモンド・プリンセスが就航していたと信じるのと同じことです。

次回は、神武東征などの古文書に記された航路の不可解さや、現実的な古文書の見方を考察します。