「古代船では瀬戸内海は無理」という私と同じ考えの本がありました。邪馬台国時代の交易は、主に日本海航路が使われていたとし、丹後半島に王国が存在していたという説を唱えています。タイトルは、”古代史の謎は「海路」で解ける”です。著者は、港湾工事や運河建設をされていた理系の方です。それだけに、歴史作家のようなメルヘンチックな解釈ではなく、理論的に古代史の洞察がなされているものと期待しました。残念ながらその期待は裏切られましたが、瀬戸内海航路の困難さを指摘している点では、大いに共感しました。
この本のタイトルは、”古代史の謎は「海路」で解ける”です。2015年の刊行です。
著者は、長野正孝氏。
1945年生まれ。
1968年名古屋大学工学部卒業。工学博士。
元国土交通省港湾技術研究所部長
元武蔵工業大学客員教授。
広島港、鹿島港、第二パナマ運河など港湾や運河の計画・建設に携わる。
著書には、
古代史の謎は「鉄」で解ける
古代の技術を知れば、『日本書紀』の謎が解ける
などがあります。
本の概要です。
全15章からなっています。
第一章 卑弥呼と海人の海は-九州それとも大和?
第二章 丹後王国をつくった半島横断船曳道
第三章 対馬海峡を渡った熟練の船乗り
第四章 卑弥呼の特使・難升米の洛陽への旅の謎
第五章 卑弥呼とは何者か?
第六章 卑弥呼の時代、瀬戸内海を航海できる船乗りはいなかった
第七章 日本人はどんな船で旅をしたか?
第八章 航海王・応神帝の登場-帆船が日本海を行く
第九章 「倭の五王」とは何者か?-五世紀、日本海の隠された歴史
第十章 古代史最大の謎-雄略帝の瀬戸内海啓開作戦
第十一章 継体王朝が拓いた「近畿水回廊」
第十二章 なぜ、「難しい海」と呼ぶか?-「難波津」
第十三章 「大化の改新」の陰に消された日本海洋民族の都「倭京」
第十四章 遣唐使はなぜ頻繁に沈んだか
第十五章 瀬戸内海 繁栄の船旅
内容の要旨を地図を使って説明します。
弥生時代は、日本海の行路が主流だった。
その当時、瀬戸内海航路は拓けていない。
日本海側に数多く存在した潟湖が天然の良港だった。
丹後半島を中心として、糸魚川の翡翠、大陸の鉄の交易があった。
コンビナートとも言える製鉄を中心とする工業地帯があり、丹後王国が存在していた。
丹後半島や能登半島には、運河があった。
帆船の出現で、中心地は敦賀へと移った。
応神天皇の時代に帆船が登場し、丹後王国の役割が終わった。
それに代わって、敦賀王国が最大の港となった。
瀬戸内海が拓けたのは、五世紀頃になってから。
神武東征や神功皇后の近畿地方への航路が瀬戸内海など有り得ない。
雄略天皇の吉備征伐あたりに拓かれたようだ。
日本海と琵琶湖を結ぶ運河が作られた。
敦賀は日本最大の都市となり、蝦夷地討伐の拠点だった。
九州海人族の瀬戸内海への移住
村上水軍などの、のちの時代に瀬戸内海で活躍する人々は、宗像海人族を祖先とする。
遣隋使以降の瀬戸内海航路の繁栄。
日本書紀が書かれた八世紀には、瀬戸内海航路は当然だった。
これらのうち、私の説と共通するのは、「弥生時代は、日本海の行路が主流だった。」、「瀬戸内海が拓けたのは、五世紀頃になってから。」です。
本の寸評を行うと、どうしても自説に近い内容は、良い評価となり、そうでない内容は残念な評価となってしまいます。ご了承下さい。
では、この本の良い点は二点あります。まず、瀬戸内海の困難さを指摘している事です。
これにより古代日本の商業活動の地理的な中心地は、太平洋側や瀬戸内海沿岸地域などではなく、日本海沿岸地域だったという推測がなされています。
我が意を得たり、という心境です。私の場合は、農業の視点から弥生時代においては、日本海勢力が主力だったと考えました。その延長線上に、交易という商業活動の点からも、日本海側の方が瀬戸内海よりも古代船で航海するには便利だったと推定していました。これは、以前の動画で何度も言及しています。
海のプロとも言える著者の視点から、その推定が正しいというお墨付きを頂いたような気分です。
またこれを根拠に、神武東征などの瀬戸内海ルートは有り得ないと考えていましたが、やはり日本書紀の編集・舎人親王の誤解であるとの言及がなされていました。八世紀には既に瀬戸内海航路は当たり前になっていた時代ですので、その困難さを知らずに日本書紀が書かれたのでしょう。
欲を言えば、瀬戸内海を渡る事の難しさについて、もう少し踏み込んだ情報が欲しかったと思います。瀬戸内海の潮流速度が高速である事や、食料確保の難しさ、海賊たちが高地性集落から監視している、といった海の素人の私でも知っている事の列挙に留まっており、目からうろこが落ちるような新しい視点はありませんでした。
対馬海峡の困難さについても同様で、「世界一厳しい海」と定義しているものの、その根拠が納得できるものではありませんでした。
次に、運河の建設という新しい視点が盛り込まれていました。古代日本で、船が陸地を横断するという発想はこれまでありませんでした。著者が現代の運河建設に携われておられたからこその発想と思います。
運河とはいっても、現代のような水路だけで船が移動するという形式ではありません。川があるところは、それを利用して、峠を超える時は修羅を用いて人力で曳く、という方法です。これによって、丹後半島や能登半島という断崖が続く海域を、周回する事なく陸地を船ごと近道できるという訳です。また、敦賀から琵琶湖までを運河で結んで、日本海と太平洋を水路で繋げたという発想です。費用対効果を考えるとあり得ませんが、ファンタジーとしては面白いと思います。
なお、日本海側の敦賀と琵琶湖北岸とを結ぶ運河の計画は、実際に江戸時代に行われ、水路の一部が建設されて現在でも残っているとの事です。
この本の残念な点です。
海を利用した交易活動に固執しすぎていると思えました。本のタイトル通りと言えばそれまでなのですが、古代史の謎を交易という商業活動だけで解明するのは無理があるでしょう。
著者は、糸魚川の翡翠と朝鮮半島の鉄の交易を主軸に丹後半島に大きな勢力があったと見ていますが、果たしてそうでしょうか。確かに、丹後半島は、北部九州を凌駕する弥生遺跡の宝庫です。なんらかの勢力が存在していた事は間違いありません。
しかし、翡翠は一般の人々にとっての必需品ではありませんし、鉄についても大量生産できた時代ではありません。需要と供給がそれほど多くなかった時代ですので、たとえこの地で交易活動があったとしても、そう頻繁な交流はなかったでしょう。
また、人口扶養力の点でも問題があります。農業に適した土地が少ないのです。これでは、この地域に強力な勢力は出現しません。要は、大きな農業生産がない事には活発な地域交流や商業活動は起こり得ないのです。
江戸時代における人口構成でさえ、農業従事者が90%を超えており、残りの10%に武士を始めとする支配階級や商人がいたわけですので、弥生時代には99%以上が農業従事者だったとみて間違いありません。商業を行っていたのは、ごくごく僅かな人々です。
仮に、邪馬台国が商業を中心とする都市国家だったとすれば、大量の農業収穫物が得られる生産地がバックにあり、その運搬ルートを第一に考えなければならないでしょう。著者はこの点を軽視しすぎています。丹後王国にしても、敦賀王国にしても、それだけの大きな農業生産を上げられる土地はありません。
そのほかにも色々と残念な点があったのですが、そもそも古代史の解明はファンタジーの上に成り立っていますので、これ以上は言及しません。それよりも、「古代日本において瀬戸内海航路は使えなかった」という当たり前な事を、海のプロフェッショナルである著者が指摘したのは素晴らしいと思いました。文献史学者や歴史作家であれば、辻褄が合わない事象に遭遇すると、「古代は想像以上に技術が進んでいた」などと言って、はぐらかしてしまいます。この本の著者は、ご自身の海に関わる仕事の経験から仮説を導き出された訳ですので、それ相応の説得力がありました。