最古の天皇 考古学的実在性

 神武、崇神、応神、雄略という実在の可能性のある天皇は、記紀という一本の糸しか根拠がありません。

ところが継体天皇になると、複数の根拠が見つかります。王朝交代の可能性もある天皇ですが、地政学上でも理にかなっています。それは、古代の中国大陸からの文明の流れは、リマン海流と対馬海流に依存しており、日本海側が「表日本」だったからです。近畿地方という「裏日本」へ文明が伝播して行ったのは、自然な流れだったのでしょう。

 今回は、継体天皇の実在性を示す考古学的な資料に焦点を絞って、考察して行きます。

考古学00
継体天皇

 継体天皇の実在性については、文献史学上では前回の動画で示した通り、幾つもの根拠があります。それ以前の天皇が、記紀だけという細い根拠しかありませんので、比較にならないでしょう。

 では、考古学上の根拠はどうでしょうか。これも数多くありますが、今回は三点に絞って紹介します。

・諱の銘が刻まれた銅鏡 がる事

・磐井の乱の物的証拠 がある事

・日本最古の王族が越前にあった事

です。

考古学10
男弟王

 まず、和歌山県橋本市の隅田八幡神社(すだはちまんじんじゃ)所有の人物画像鏡(じんぶつがぞうきょう)です。

これは、埼玉県稲荷山古墳の鉄剣や、熊本県の江田船山古墳の鉄刀と並ぶ大王の名前が記されている金石文(きんせきぶん)です。5世紀から6世紀頃に作られたとされており、まさに継体天皇の時代です。

書かれている名前は男弟王(をほどのおう)です。日本書紀の継体天皇の諱は、男大迹王(をほどのおう)ですので、漢字の違いこそあれ、同じ人物と見ていいでしょう。

 雄略天皇の物的証拠とされる稲荷山古墳の鉄剣の銘は、読み方にかなり無理がありますが、こちらはほぼ同じです。

また、継体天皇が越前から近畿征服で辿ったルートの中にも、同じ型の銅鏡が見つかっています。

福井県若狭町の西塚古墳などです。

考古学20
筑紫磐井

 次に、磐井の乱の物的証拠です。この乱は、継体天皇の時代に九州・筑紫平野で起こった古代史最大の戦いです。古事記、日本書紀、筑後国風土記逸文に記されているだけでなく、磐井一族が九州に実在していた事を示す証拠が残っています。

 筑後国風土記逸文によると、現在の福岡県八女市東北部の役所の南2里に磐井一族の墓があるとされています。まさにその場所に古墳があるのです。岩戸山古墳という北部九州では最大規模の前方後円墳で、6世紀前半、すなわち継体天皇の時代の築造と推定されています。

これは、磐井の乱が実際に起こった事件である事の証明であると同時に、継体天皇も実在していた事の証明にもなります。

 また、継体天皇の陵墓とされる今城塚古墳から発見された石棺には、熊本県宇土市産の石が使われています。阿蘇ピンク石と呼ばれている石です。磐井の乱を制圧したヤマト王権が、熊本の石を持ち帰ったと推測するのに、無理はないでしょう。これらは以前の動画で考察していますのでご参照下さい。

 これらのように、文献史学と考古学資料が豊富で、しかも一致している最初の天皇が継体という事です。

考古学30
田舎の大王ではない

 さらに、越前の大王だった継体天皇が、なぜ近畿地方を征服できたか、という疑問に対する考古学的な答えもあります。それは、日本最古の王冠です。福井県永平寺町の二本松山古墳から金の冠と銀の冠が出土しています。

 この古墳は松岡古墳群と呼ばれる地域の一角で、二世紀の四隅突出型墳丘墓から、継体天皇の時代までの古墳が密集している場所です。

 冠の時代としては、4世紀から5世紀頃とされており、日本で最も古い金の冠、銀の冠です。これは、越前の地が日本列島で最も古い王族が存在していた事の裏付けです。これは、私の説の基本である「古代農業の視点」一致します。それは、越前の地が、邪馬台国時代から日本で最も広大な天然の水田適地が存在していたという事。それによって、強力な王族が出現したという事です。

 王冠については、さらに継体天皇が近畿地方に進攻する過程において、福井県若狭町の十善ノ森古墳、滋賀県高島市の鴨稲荷山古墳においてそれぞれ六世紀初頭の金の冠が発見されています。

 近畿地方の金の冠では、継体天皇の曾孫・聖徳太子ゆかりの藤ノ木古墳が有名ですが、それよりも遥かに昔から越前の地に強力な王族が存在していた事の裏付けになります。

 この事は、記紀に記されている継体天皇の扱いに疑義を唱える根拠にもなります。すなわち、ヤマト王権によって招聘された田舎者の越前の大王というよりも、越前という当時の最先端地域の大王が、近畿地方という遅れた地域を征服した、とみる方が自然なわけです。

 そもそも中国大陸の文化は、棒高跳びのように近畿地方に入って来たわけではありません。海を渡って日本海側に伝来し、そこから近畿地方に入ったのです。日本海の水上交通が大きな役割を果たしていた事の証でしょう。

そんな当たり前な事を、継体天皇は教えてくれています。

考古学40
最古の天皇

これらの証拠をまとめます。

・文献史学からは、日本書紀、古事記、上宮記逸文、筑後国風土記逸文。

・考古学からは、人物画像鏡、岩戸山古墳、今城塚古墳、最古の金の冠、銀の冠。

・地政学の視点からも、対馬海流がぶつかる越前は、中国大陸文化の集積地だった事が容易に推測されます。また、邪馬台国越前説の基本である農業の視点からも、天然の水田適地が広がるこの地は超大国でしたので、近畿地方を圧倒する国力があったのは自明です。

 このように、実在の可能性がある最も古い天皇は継体天皇と見て間違いないでしょう。

 「実在の初代天皇は誰か?」

という疑問については、

 「どの天皇が近畿地方を征服したか?」

という疑問と同義語になっているでしょう。つまり、王朝交代です。

 神武天皇、崇神天皇、応神天皇は、文献のみで考古学的資料は皆無です。文献を曲解しないことには実在性が浮かび上がりません。それに対して継体天皇は、多くの古文書の記述と、考古学的資料とが一致する最初の天皇です。無駄な曲解をする必要もありません。

 結論は明らかでしょう。