邪馬台国への行路。投馬国の重要な意義

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古代史最大のミステリー、邪馬台国の場所はどこにあったのでしょうか?

前回までに、魏志倭人伝の記述に従って行路を辿って行くと、邪馬台国の一つ前の国・投馬国は、但馬・丹後エリアである事が分かりました。今回は、顕著な弥生遺跡が豊富なだけでなく、なぜ投馬国に立ち寄らなければならなかったのか? など、この地が投馬国である事の数々の根拠を示して行きます。

  まず、これまでに辿って来た行路を示します。

魏の植民地だった朝鮮半島の帯方郡を出発して、狗邪韓国、海を渡って対海国。一大國。末蘆国。

 ここからは九州島の陸路で、末蘆国から伊都國。奴国。不彌國。そして、不彌國からは船で20日間移動して、投馬国・但馬丹後エリアに至りました。

 なおこの行路では、九州島の最初の上陸地点・末蘆国からはずっと、魏志倭人伝の方角の記載に90度の誤りがありましたので、修正しています。つまり末蘆国から伊都國、および伊都國から奴国へは、魏志倭人伝には「東南」という方向が記されていますが、実際には北東方向。奴国から不彌國へは、「東」という方向が記されていますが、実際には北方向。さらには、不彌國から投馬国へは、「南」という方向が記されていますが、実際には東方向となっています。

 この行路においては、古代の主要国・出雲を無視しています。その理由は前回述べました通り、客観的に見て弥生時代の出雲は、高志の国の植民地であったり、青銅器文化圏であったりと、軽視して良い存在だったからです。つまり一般的な出雲に対するイメージは、「過大評価」であると結論付けしました。

 今回は、投馬国がなぜ出雲ではなく、但馬・丹後エリアであるか、但馬・丹後エリアのどこが優れているのか?を説明します。

 考古学的な視点から眺めて見ると、但馬・丹後エリアは、出雲の国よりも遥かに勝っています。

出土品の中でも、鉄器に注目してみましょう。すると、出雲平野では、青銅器はいっぱい発見されているのに、鉄器はほとんど見つかっていません。いうなれば、遅れた青銅器文化圏だという事です。

一方で、出雲平野から東へ行けば行くほど、鉄器の出土は多くなります。鳥取県の妻木晩田遺跡や青谷上寺地遺跡など、からは大量の鉄器が見つかっています。そしてそのピークは丹後半島にあります。

 邪馬台国時代の鉄の出土量では、丹後半島が日本一です。

有名なところでは、丹後の国風土記の羽衣伝説に出てくる天女・豊宇気毘売神(トヨウケビメ)が祭られている奈具岡遺跡があります。

 ここからは8キログラムもの鉄が出土しているだけでなく、鉄滓の出土もあります。鉄滓は、鉄を製錬する際に出る不純物ですので、ここに日本最古の製鉄所があった可能性があります。さらには、水晶・ガラス玉、碧玉などの宝石類も豊富に出土されていますので、強力な王族が存在していた事は間違いないでしょう。またこのほかにも、扇谷遺跡 途中が丘遺跡など、弥生時代から古墳時代に掛けての顕著が遺跡が数多く見つかっており、多種多彩な王族の出土品が発見されています。これらの事から、古代史研究家の間で「丹後王国」と呼ばれるほど、この地は重要視されています。

 弥生遺跡と言えば、とかく博多湾や糸島半島などの北部九州を思い浮かべてしまいますが、丹後半島から発見されている邪馬台国時代の出土品では、北部九州を完全に凌駕しています。

 魏志倭人伝の邪馬台国への行路を推測する上で、考古学的な視点からは、出雲以上に外してはいけない場所。いや、博多湾以上に絶対に外してはいけない場所。それが丹後王国だと言い切れます。

 また、丹後半島に隣接する但馬の国は、弥生遺跡こそ少ないものの、貴重な出土品があります。それは邪馬台国時代の船団の線刻画です。袴狭遺跡からの出土で、小型の船が幾つも描かれていました。これは、船団の絵としては日本最古です。しかも準構造船という、船首に波よけが付いた外海を航海する船でしたので、この地域の弥生時代には既に船団を組んで日本海を航海していた事を裏付ける史料となっています。

 このように、但馬・丹後エリアは考古学的に邪馬台国時代に非常に重要なポジションにあった事が分かります。

 但馬・丹後と、さらに内陸部の丹波の国を含めた地域は、考古学的に独自の文化圏を形成しています。それは、弥生時代の鉄器の出土が群を抜いている事。独特な土器類が分布している事。さらには山陰地方や北陸地方に分布する四隅突出型墳丘墓が全く存在せず、その代わりに巨大な方形周溝墓が幾つも発見されている事。などなど、出雲文化圏ではなく、高志の国(北陸地方)の文化圏でもなく、ましてや近畿地方の文化圏でもない、独特の文化を持っています。

 この但馬・丹後・丹波地域は、奈良時代よりも前の時代には、「タニハ」、または「タンマ」と呼ばれていました。どう思われますか? 

 投馬国とタンマ国。魏の使者たちが聞いた国の名称が、まさにこの地域だったとは思いませんか?

出雲の国のように、投馬国を強引に「つま国」と読ませるような曲解をする必要もなく、素直に投馬国で、タンマ国と一致するのではないでしょうか?

 さらにもう一点、この地が投馬国である理由があります。

それは最終目的地の邪馬台国への行路との関係です。

 不彌國から投馬国までは、「水行」という沖乗り航法で、一気に日本海を渡って来ました。そして次の邪馬台国までも同じ「水行」です。不彌國から投馬国までは20日間の船旅で、投馬国から邪馬台国までは10日間の船旅です。

最終目的地が女王の都する所・邪馬台国ですので、何もわざわざ投馬国などに立ち寄る事なく、「水行30日」で一気に邪馬台国まで行ってしまえば良いようなものです。ところがそうはしなかった。いや、そうはせずに投馬国に必ず立ち寄らなければならない理由が、存在していたのです。

 そもそも「水行」というのは、港・港に立ち寄ることなく、対馬海流を利用しながら一気に海を渡って行く沖乗り航法の事です。しかしながら、邪馬台国時代の稚拙な造船技術では、簡単に出来たわけではなかったでしょう。船のメインテナンスの為に、時々港に立ち寄らなければならなかったでしょう。また、天候が急変した場合には、近くの港に避難しなければなりません。さらに船に積み込んだ食料品や水が枯渇した場合も、然りです。このような事情を勘案すれば、陸地の地形が非常に重要になってきます。非常事態が発生した場合に、容易に陸地に辿り着けるかどうかが問題だという事です。

 不彌國から投馬国までの水行では、山陰地方の直線的な海岸線を、沖乗り航法で進んできました。ここの岸辺は砂浜が続いていますので、上陸しようと思えばどこでも可能です。すなわち、沖乗り航法を中断しようと思えば、いつでも中断できる場所なのです。

 ところが投馬国の東側を見て下さい。そこには、若狭湾という入り組んで断崖絶壁が続く海岸が存在しています。ここを同じように沖乗り航法をしようとした場合、とても危険です。海岸線から30キロ以上離れた沖合を進む事になりますので、非常事態が発生した場合でも簡単に陸地には到達できません。さらにリアス式海岸ですので、簡単に岸に上がる事はできません。

 このような条件で若狭湾を横切るには、最高の天候、最高の海のコンディションを見計らって、一気に渡り切らなければならない、となります。すると、どうする必要がありますか?

 単純ですね? 但馬・丹後あたりで停泊して、自然条件の良い日を待つ。となる訳です。

これが、九州の不彌國から一気に邪馬台国まで行かずに、投馬国に立ち寄った最大の理由でしょう。

また、但馬・丹後エリアは平地が少なく、食料生産の視点からは非常に脆弱です。それなのになぜそこに「丹後王国」とも呼べる弥生時代の文化圏が発生したのか? 大きな疑問がありました。

それは、邪馬台国への行路の中継地点として、とても重要な役割があったという理由から糸口が見えてきます。

魏志倭人伝に記された投馬国。それは、但馬・丹後エリアで間違いありません。

 いかがでしたか?

魏志倭人伝を読み進めて行くと、邪馬台国までの行路が非常に正確である事が分かります。九州・宗像は海の国・不彌國。投馬国は沖乗り航法の中継地点の但馬・丹後エリア。それらは対馬海流という自然作用を利用した沖乗り航法で結ばれていた。すべてが理に適いますね?

次回は、いよいよ最終目的地の邪馬台国へ向かう事になります。