魏の使者は卑弥呼に会わなかった!

 邪馬台国チャンネルへようこそ。魏志倭人伝を読み進めて、41回目になります。

魏の皇帝から卑弥呼個人へのプレゼントには、邪馬台国の場所を特定できる要素が満載でした。特に、赤いお化粧をするのに使う真珠(朱丹)という硫化水銀は、興味深いですね? 実際に日本列島の幾つかの弥生遺跡から、中国産のものが検出されています。

 今回は、魏の使者たちが倭国日本へやって来た内容と、二回目の朝貢の記述へと進んで行きます。

 まず、これまで読み進めてきた魏志倭人伝の概要を示します。

大きく3つの章に分けられており、

 最初は、諸国連合国家である女王國について。

次に、倭人の風俗習慣について。

最後に女王國の政治状況について。

 となっています。魏の使者がやって来た話は、この章に書かれています。

 これまでに読み進めた内容を要約します。

邪馬台国までの行路では、このような道程が示されていました。その間にある20ヶ国の旁國を含めた30あまりの国々が連合して「女王國」が成り立っており、その中の一つ、女王の都が邪馬台国です。

 行路の記述では、九州島の最初の上陸地点である末蘆国から、最終目的地の邪馬台国まではずっと、90度の誤りがあります。これは女王國が、海岸線の情報を魏の使者たちに知られまいとし、その作戦が功を奏したからです。

 女王國に敵対していた狗奴国については、南に位置すると書かれていますので、90度ずれた東に位置する近畿地方を指しているようです。

 また、帯方郡から女王國までの距離が12000里という記述も正確でした。

  風俗習慣の記述では、魏の使者が見聞した様々な事柄が記されています。

北部九州の伊都国(現在の福岡県糸島市)に留め置かれていましたので、ほとんどが九州の風俗習慣です。倭人の身なり、絹織物の生産、鉄の鏃を使っている、などという描写です。

また、日本列島の気候風土とは全く合致しない記述もありました。それは、倭国はとても温暖で冬でも夏でも生野菜を食べている、みんな裸足だ、という記述で、それらは中国南部の海南島と同じだとされています。

 方角を90度騙された魏の使者の報告書から、どうやら著者の陳寿が「倭国は南の島である」、という勝手な思い込みをしていたようですね? 海南島のイメージで倭人伝を書いてしまったようです。植物に関する記述でも、広葉樹のみが記されている事からも分かります。

 さらに人々の生活については、父母兄弟は別な場所で寝起きする、赤色顔料を体に塗っている、食事は器から出掴みで食べている、人が亡くなった際のお墓の形式・お葬式の風習、食べ物には薬味を使っていない、猿やキジがいるのに食料にしていない、占いは骨卜、お酒を飲む習慣、一夫多妻制、規律正しい社会である事、などかなり詳細な部分にまで及んでいました。

 倭国の政治状況の章に入ると、一大率という検察官を置いて諸国に睨みを利かせていた伊都國。卑弥呼に関する記述。 そして、女王國の周辺諸国の話となり、侏儒国というコロボックルが住んでいた地域、船で一年も掛かかる裸国や黒歯国の話へと続きました。

 さらに、倭国の朝貢に対して、魏の皇帝からの詔、その中の絢爛豪華な下賜品の数々の記述へと進みました。

 今回、その先を読み進めると、魏の使者が倭国日本へやって来た記述へと入って行きます。

正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭國 拝暇倭王

  并齎詔 賜金帛錦罽刀鏡采物 倭王因使上表 荅謝詔恩

「正始元年、太守、弓遵は建中校尉、梯儁等を遣はし、詔書、印綬を奉りて倭国に詣り、假倭王に拝す。並びに、詔を齎(もた)らし、金、帛(はく)、錦、罽、刀、鏡、采物を賜う。倭王は使に因りて上表し、詔の恩に答へて謝す。」

 正始元年(西暦240年)に、魏の使者がやって来ました。魏の皇帝が詔を下したのが景初二年(西暦238年)の12月でしたので、それから約一年後の事です。

朝鮮半島・帯方郡のトップである弓遵が、建中校尉という役職の梯儁(ていしゅん)という人物を派遣したとされています。その際に、詔書と印綬を奉って、仮の倭王に面会しました。

 魏の使者たちは、伊都國(現在の福岡県糸島市)に留め置かれていましたので、女王卑弥呼ではなく、伊都國の代表者のような人物と接見したという事でしょう。假倭王と書かれている通り、卑弥呼とは会っていないですね?

 この假の倭王と面会した際には、魏の使者が詔を読み上げて、織物類や鏡などの下賜品を授与しました。

倭王はそれに対して感謝して恩義を示したとされています。

 次に、倭国から魏の国への二回目の朝貢が書かれています。

  其四年 倭王復遣使 大夫伊聲耆掖邪拘等八人

  上獻 生口 倭錦 絳靑縑 緜衣 帛布 丹 木拊短弓 矢

 

「その四年、倭王はまた使を遣わす。伊聲耆(いせいき)の掖邪拘(えきやく)等八人なり。生口、倭錦、絳青縑(こうせいけんと)、緜衣(めんい)、帛布(はくふ)、丹、木拊短弓(もくふたんきゅう)、矢を上献す。」

 その四年となっていますので、魏の使者が倭国にやって来てから三年後の正始四年(西暦243年)に、二回目の朝貢がありました。使者は大夫の伊聲耆(いせいき)・掖邪拘(えきやく)ら八人でした。

 奴隷、倭の錦、赤青の目の細かい絹、綿の着物、白い布、丹、木の握りの付いた短い弓、矢を献上しました。

 

 二回目の朝貢品は、少し豪華になっています。一回目の朝貢品が、奴隷と麻布といったとても粗末な品々だったので、とても恥ずかしい思いをしたからなのでしょう。錦や綿布や絹織物といった、高級繊維が含まれています。

「倭国だって高級な繊維を作る技術はあるんだぞ!」、という所を示したかったのではないでしょうか?

また、「丹」という赤色顔料も含まれています。これも一回目の際に、「真珠・鉛丹」とった赤色顔料をプレゼントされていましたので、お返しの意味も込められていたのでしょう。「丹」については真珠と同じ硫化水銀か、あるいは阿蘇黄土から採れる二酸化鉄、いわゆるベンガラの可能性もあります。倭人伝のこの記述だけからは分かりませんが、朝貢団は必ず北部九州を通ったでしょうから、ベンガラの可能性が高そうですね?

  二回目の朝貢を行ったのは掖邪狗という人物なのですが、彼に対する待遇が次に記されています。

  掖邪狗等壱 拝率善中郎将印綬

「掖邪狗等は 率善中郎将、印綬を一拝す。」

とあります。

使者の掖邪狗には、率善中郎将という官位と印綬が授けられました。

 一回目の使者・難升米と同じ官職で、同じ銀の印鑑が与えられたようですね?

なおこの二回目の朝貢では、魏の皇帝からの詔などの具体的な内容が記されていません。おそらく既に接見していたので、魏の皇帝は朝鮮半島の帯方郡にすべて任せていたようですね? この朝貢団は、帯方郡に行っただけで、洛陽までは行っていない可能性があります。

 ところで、倭国からの朝貢品には必ず「生口」が含まれています。一般にはこれを「奴隷」として翻訳されます。

これは、中国の他の古文書から「奴隷」の意味で使われる例が多いので、そのように訳しているのでしょう。生口という名の人間の献上品は、魏志倭人伝だけでなく、後漢書にも記されており、中国への献上品としては最も喜ばれるものだったに違いありません。

 しかしながら、「奴隷」という翻訳に異議を持つ方も多いようです。ここで、二つの説を紹介します。

 一つ目は、生口は単なる肉体労働を行う人間ではなく、特殊な技術を持った人間である。とする説です。

人口扶養力が日本列島よりも優れている中国大陸では、現代も古代も人の数はとても多いです。そんな環境の中では、僅かばかりの奴隷を貰ったところで、嬉しくも何ともありません。中国が喜ぶとすれば、何等かの技術を持った人材をプレゼントされる事ではなかろうか? 生口とは技術者ではなかろうか?

という説です。なるほど、そういう考えは筋が通りますね?

 もう一つは、生口は食材である。とする説です。

つまり、現代の牛や豚のように、調理して食べる為の材料という事です。よく知られているように、中国人は人食い人種です。古来より人間を食べる習慣があった事は、古文書にも記されています。また現代でも、田舎の方へ行けば貧しい人間が食料にされているという話もよく耳にします。

 魏志倭人伝の風俗習慣の中にも、倭国にはお猿さんがいるのに食料にしていない。もったいない。という記述があったように、中国人は霊長類が大好物のようですね?

 そんな中国人へのプレゼントとして、生口という名の食料用の人間が献上されるのは、願ってもない事だったでしょう。世界的に有名な、松坂牛、近江牛、但馬牛のように、日本列島で食料用に飼育された人間は脂が乗っていて、とても美味しく調理されたに違いありません。

 いや、あるいは「生口」という名の通り、調理せずに、お刺身のように生の人肉を食べていたのかも知れませんね?

 いかがでしたか?

魏の国から倭国日本へやって来た一回目の使節団は、単に魏の皇帝からの詔を伝えるだけの役割だったようです。

その後、倭国から二回目の朝貢を行った後、卑弥呼は亡くなり、倭国は再び戦乱状態となり、宗女壹與が女王になる。というように、事態は急変して行きます。卑弥呼が朝貢を始めた理由が、倭国内部を安定させたいという思惑があったとする説の根拠も、この後の記述から見えて来るでしょう。

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中国人は人食い人種

 鎌倉時代を題材にした「鉢の木」の逸話をご存じでしょうか?

執権・北条時頼が貧しい農家で宿を借りた際のお話です。その家の主人は、「いざ鎌倉」、という忠義心の高い人物でした。ところが火を焚く為の薪が無かったので、大切に育てていた鉢の木を薪にして、北条時頼に忠誠心を示した。という話です。これは、室町時代に創作された話なのですが、この元ネタは、中国の古文書だとする説があります。

 中国の話は、鉢の木ではなく、自分の女房でした。

国の高級幹部が貧しい農家に宿を借りた際のお話です。その家の主人には、おもてなしをする食料がありませんでした。そこで自分の女房を殺して、肉をさばいて、とても美味しい人肉料理をこしらえた。という話です。

まあ、日本人にとってはとても気持ち悪い話ですが、中国人にとっては、それば普通だったのでしょうね? そもそもが人食い人種ですから。そんな話が、「美談」として語り継がれるのですから、日本人と中国人とは根本的に違うという事でしょう。