なぜ倭人は、猿がいるのに食べないの?

 邪馬台国チャンネルへようこそ。魏志倭人伝を読み進めて、26回目になります。

倭国の風俗習慣の記述に入っていますが、今回は、倭国に自生している樹木や、食材になる植物・動物に関する記述になります。樹木に関しては、倭国は南の島であるという前段からの流れで、南国に繁茂する広葉樹だけが記されています。また、生姜や山椒などの料理を美味しくする薬味が、倭国では使われていない事、などの記述へと繋がっています。弥生時代の日本だけでなく、中国の食事情も垣間見られます。

 魏志倭人伝の中で、これまでに邪馬台国への行路から始まり、風俗習慣の記述へと読み進めてきました。

ここがほぼ半分進んだ事になります。

 行路の記述では、この図のような邪馬台国までの道程が明確に分かるように記載されていました。

そして、奴国と邪馬台国との間にある20ヶ国の旁國、これらをすべて含めた30あまりの国々が連合して「女王國」が成り立っており、その中の一つが邪馬台国であり、女王の都だと分かります。

 行路の記述では、九州島に上陸してからはずっと、90度のずれがありました。これは、魏の使者たちを欺く目的があったようです。

女王國に敵対していた狗奴国については、ここでは南に位置するとだけ書かれていましたので、90度ずれた東に位置する近畿地方を指しているようです。

 また、帯方郡から女王國までの距離が12000里という記述も正確でした。

 風俗習慣の記述では、魏の使者が見聞した様々な事象が記されています。北部九州・伊都国(現在の福岡県糸島市)で逗留していましたので、ほとんどが九州の風俗習慣でした。倭人の身なりだけでなく、絹織物を生産しているとか、鉄鏃などの武器を持っている、などという描写です。

 また、日本列島の気候風土とは全く合致しない記述もありました。それは、倭国はとても温暖で、冬でも夏でも生野菜を食べていたり、みな裸足だという描写で、それらは中国南部の海南島と同じだとされています。

 行路の記述において90度のズレがありましたので、どうやら著者の陳寿が「倭国は南の島である」、という勝手な思い込みをしていたようですね?

海南島のイメージで倭人伝を書いてしまったのでしょう。

 さらには人々の生活についても描写もありました。父母・兄弟は別な場所で寝起きする、赤色顔料を体に塗っている、食事は器から出掴みで食べている、人が亡くなった際のお墓の形式、お葬式の風習など、かなり詳細な部分にまで及んでいました。また、海を航海するものの厳しい掟についての描写、倭国から産出する鉱物資源についての記載もありもありました。

 次に描写しているのは、倭国の植物についてです。

「其木有・枏杼・豫・樟・櫪・投・橿・烏號・楓香」

 

「その木には枏杼(たんしょ)、橡(トチ)、樟(クス)、楺櫪(じゅうれき)、投橿(とうきょう)、烏號(うごう)、楓香(フウカ)有り。」

 

 ここに出てきた植物、タブノキ、クヌギ、クロモジ、クスノキ、モチノキ、ヤマグワなどは、いずれも日本列島の照葉樹林であり、落葉広葉樹林帯に一般的に植生する植物です。この中には、どういう訳か針葉樹は含まれません。弥生時代の日本列島が温暖で、針葉樹が生えていなかった訳ではなく、むしろ小氷河期とも言える時代でしたので、針葉樹林も当然自生していた事でしょう。

 魏の使者たちが伊都國(現在の福岡県糸島市)に逗留していたからそうなった、という意見もありますが、これには当たりません。九州全域にもいっぱい針葉樹はあります。

 沖縄や台湾でさえも僅かながらスギやマツなどの針葉樹林がありますので、これはどうやら、著者・陳寿の恣意的な解釈だった見るべきではないでしょうか?

 魏志倭人伝の風俗習慣の前段部分で、倭国は温暖である。冬でも生野菜を食べている。長江の東に位置している。海南島と同じである。などの、極端に南の国であるとの記述がありましたので、陳寿の頭の中は、「南の島・倭国」という固定観念が出来上がっていて、それに従って風俗習慣を創作したのではないでしょうか?

広葉樹だけが存在しているというのは、まさにそれを象徴しています。

 仮に、魏志倭人伝の樹木の記述が正確だとした場合、北海道はもちろん、本州・四国・九州でさえも合致しません。

なぜならば、著者・陳寿は中国南部の海南島をイメージして書きなぐっているだけなのですから。

 次に、その他の植物と動物の記述です。

「其 竹篠簳桃支 有薑橘椒襄荷 不知以為滋味 有獮猴黒雉」

「其れ、竹篠簳(チクショウカン)は桃支(トウシ)なり。薑(キョウ)・橘(キツ)・椒(ショウ)・蘘荷(ジョウカ)有り、以って滋味を為すを不知(しらず)。獮猴(ビコウ)黒雉(コクチ)有り。」

 

篠竹の幹を使って桃ノ木を支えている様子が書かれています。桃の栽培が盛んに行われていたのでしょう。桃に関する記述は、魏志倭人伝の中ではここだけなのですが、邪馬台国畿内説では、これがいつの間にか独り歩きしているのをご存じでしょうか? 奈良県の纏向遺跡から大量の桃の種が見つかり、その中のほんの一部だけが邪馬台国時代と一致した為に、桃の種は祭祀行事に使われていた、卑弥呼が占いに使っていた。などという根拠の無い作り話が出来上がっているのです。たった五文字のこの桃に関する記述で、我田引水なファンタジーが作られていますね?

 なお占いについては、このすぐ後の記述の中に、「輒灼骨而卜」骨を焼いて占いをする、とありますので、桃とは一切関係がありません。

 「生姜、柑橘類、山椒、茗荷はあるものの、それらが味を良くする薬味であることを知らなかったようですね?

現代の日本食では当たり前のように使われていますが、その当時の日本人に薬味を使う習慣が無かったようです。食文化に関しては、現代でも中華料理には適いませんから仕方ありませんね?

 この食べ物に関する記述の次には、突然、動物に関する記述が現れます。

ビコウ猿、黒キジがいる。

「無牛馬虎豹羊鵲」前の段階で既に牛や馬がいないという記述があったのに、再び動物の記述になっています。おそらくこれは、食材としての動物なのでしょう。生姜や山椒という良い薬味がありながら倭人は使っていない、との記述の流れで、せっかく猿や雉という美味しい動物がいるのに、食べていないよ。もったいないよ。という意味が込められているようです。現代の中華料理の高級食材にも、猿の脳みそがありますし、雉料理もあります。中国では古代からずっと猿を食べる習慣があったようですね?

 いかがでしたか?

魏志倭人伝を読み進める上では、先人の翻訳を参考にする事がよくあります。ところがそれらは、必ずしも正確ではありません。今回の桃ノ木の支柱に関する記述でも、正確に翻訳されているものはありませんでした。多くの訳文では、竹の種類に関するものとしていました。それは、誤りです。

 これに限らず、著名な学者が書いた文献や論文ですら、ヘンテコな内容や解釈をしばしば目にします。歴史学はプロフェッショナルが存在しない分野、と言えるかも知れませんね?

邪馬台国チャンネル

魏志倭人伝を読める快適な環境

 幸いにも私は、中国や中国語を理解するのに適した環境にあります。自分では中国語、というか北京語は、少しかじった程度なのですが、家族にネイティブがいるので助かっています。北京語だけでなく、台湾語や客家語も理解できる環境にあります。特に客家語は、三世紀の魏の都・洛陽で使われていた言語ではないか? という説が有力ですので、頼りになります。魏志倭人伝を読み進めるには、絶好の環境です。もちろん、三世紀の文法や発音と、現代のそれとが同じとは限りませんし、漢字の用法も違っていますので一筋縄では行きませんが。

 少なくとも、日本語だけでファンタジーを語っている古代史研究家よりは、まともな事が言えるのではないか?と自負しています。