宗女・壹與はまだ13歳 なぜか平和を取り戻す

 邪馬台国チャンネルへようこそ。魏志倭人伝を読み進めて、44回目になります。

今回で、遂に最後の記述となります。卑弥呼が死んで倭国は再び内乱状態になり、そこへ宗女・壹與が立ち、平和を取り戻す。という展開になります。壹與はまだ13だから、なにがしかの補佐役などの記述があっても良さそうですが、とてもあっさりした記述しかありません。壹與の時代には中国では魏から晋へと王朝交代が起こったので、「魏志」には当たらないと、著者の陳寿が判断したのかも知れませんね?

 まず、これまで読み進めてきた魏志倭人伝の概要を示します。

大きく3つの章に分けられており、

 最初は、諸国連合国家である女王國について。

次に、倭人の風俗習慣について。

最後に女王國の政治状況について。

 となっています。周辺諸国の話は、この章からです。

 これまでに読み進めた内容を要約します。

邪馬台国までの行路では、このような道程が示されていました。その間にある20ヶ国の旁國を含めた30あまりの国々が連合して「女王國」が成り立っており、その中の一つ、女王の都が邪馬台国です。

 行路の記述では、九州島の最初の上陸地点である末蘆国から、最終目的地の邪馬台国まではずっと、90度の誤りがあります。これは女王國が、海岸線の情報を魏の使者たちに知られまいとし、その作戦が功を奏したからです。

 女王國に敵対していた狗奴国については、南に位置すると書かれていますので、90度ずれた東に位置する近畿地方を指しているようです。

 また、帯方郡から女王國までの距離が12000里という記述も正確でした。

  風俗習慣の記述では、魏の使者が見聞した様々な事柄が記されています。

北部九州の伊都国(現在の福岡県糸島市)に留め置かれていましたので、ほとんどが九州の風俗習慣です。倭人の身なり、絹織物の生産、鉄の鏃を使っている、などという描写です。

また、日本列島の気候風土とは全く合致しない記述もありました。それは、倭国はとても温暖で冬でも夏でも生野菜を食べている、みんな裸足だ、という記述で、それらは中国南部の海南島と同じだとされています。

 方角を90度騙された魏の使者の報告書から、どうやら著者の陳寿が「倭国は南の島である」、という勝手な思い込みをしていたようですね? 海南島のイメージで倭人伝を書いてしまったようです。植物に関する記述でも、広葉樹のみが記されている事からも分かります。

 さらに人々の生活については、父母兄弟は別な場所で寝起きする、赤色顔料を体に塗っている、食事は器から出掴みで食べている、人が亡くなった際のお墓の形式・お葬式の風習、食べ物には薬味を使っていない、猿やキジがいるのに食料にしていない、占いは骨卜、お酒を飲む習慣、一夫多妻制、規律正しい社会である事、などかなり詳細な部分にまで及んでいました。

 倭国の政治状況の章に入ると、一大率という検察官を置いて諸国に睨みを利かせていた伊都國。卑弥呼に関する記述。 そして、女王國の周辺諸国の話となり、コロボックルが住んでいた侏儒国、船で一年も掛かかる裸国や黒歯国の話へと続きました。

 さらに、倭国の一回目朝貢に対しての魏の皇帝からの詔、豪華な下賜品の数々、魏の使者が倭国へ詣でた様子、倭国の二回目の朝貢の記録へと進みました。そして卑弥呼が亡くなり、倭国は再び戦乱状態になった、という記述へと進みました。

 卑弥呼が死んで、倭国が乱れた状態の中、新たな女王が立ちます。

復立卑彌呼宗女 壹與年十三為王 國中遂定 政等以檄告喩壹與

「また、卑弥呼の宗女、壱与、年十三を立てて王と為す。国中遂に定まる。政等は檄を以って、壱与に告諭す。」

卑弥呼の宗女・壹與が王様になりました。歳はわずか13歳でした。宗女とは、宗という漢字をそのまま翻訳すれば、思想を同じくする女性という事になりますので、卑弥呼と血縁関係にあったかどうかは分かりません。卑弥呼に関する記述の中で、侍女1000人が働いていた様子が描かれていましたので、その中の一人だった可能性もあります。

 壹與が王様になった事によって、再び平安を取り戻しました。倭国日本は、女性が王様になると平和になるようですね?

 政たちは檄をもって壱与に教え諭した。とありますが、政とは魏の使者・張政の事です。

正始八年(西暦247年)に、帯方郡からやって来た二回目の使節団のトップです。彼が、新たな女王になった壹與に対して励ましの言葉を掛けて応援したのでした。

 ここで、張政は壹與と面会した可能性が窺えます。卑弥呼の場合は「假の倭王」に接見したという描写になっているのに対して、壹與の場合は「檄告喩壹與」壹與に檄をもって教え諭したという直接話しかけたような表現になっているからです。

 卑弥呼が亡くなり男の王様が立った事によって筑紫平野で再び戦乱状態になっていましたので、壹與は陣頭指揮を執る為に北部九州にやって来ていたのでしょう。伊都國に逗留していた魏の使者・張政に面会した可能性は高そうですね?

 魏志倭人伝はいよいよ最後の記述へと進んで行きます。

  壹與遣倭大夫 率善中郎将 掖邪拘等二十人 送政等還

「壱与は倭の大夫、率善中郎将、掖邪拘等の二十人を遣わし、政等の帰るを送る。」

 これは、壹與が魏の使者である張政を送る際に、掖邪拘という倭の使者も一緒に遣わした事を示しています。掖邪拘は二回目の朝貢でも登場した人物で、その際に率善中郎将という魏の称号をもらっています。

 二十人という人数は、役職の付いた上層部の人間の数だと推測します。少なくとも総勢は100人以上いたのではないでしょうか?この時の朝貢品には30人もの奴隷がいますし、使者・張政を帯方郡にまで送り届ける役割りもありましたので、それ相応の軍隊は率いていた事でしょう。

 そしてこの時の朝貢品の内容が記されています。

  因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹

「因って、臺に詣り、男女の生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雑錦二十匹を貢ぐ。」

 今回の朝貢は三回目になります。ただしこの時、中国では魏は滅んで、晋という国家になっています。

また、臺に詣でたとありますので、今回はしっかりと都・洛陽まで行ったようです。

 朝貢品としては、男女の生口三十人、白珠五千孔、青大句珠二枚、様々な模様の錦二十匹です。

 朝貢品の内容が、少しずつ豪華になっていますね?

卑弥呼の時代の朝貢では、一回目。

 生口10人と、麻布二匹二丈だけ。

二回目は、

 生口や倭の錦、赤、青の目の細かい絹、綿の着物、白い布、丹、木の握りの付いた短い弓、矢。

でした。

 今回の壹與の朝貢品では、

 生口30人と宝石類と、豪華な織物類になりました。

 今回の朝貢品の中で、白珠五千孔は海で採れる真珠が5000個であるとする説がありますが、これは有り得ないでしょう。天然真珠一個を得るのに数万個の貝が必要ですので、5000万個以上の貝を狩猟した、などというとんでもない話になるからです。日本列島における弥生時代の宝石類の出土では、ガラス玉が数百個単位で見つかっていますので、おそらくそれでしょう。ガラス玉ならば辻褄が合います。

 一方、青大句珠二枚は、翡翠の勾玉が2個だと考えられます。以前の動画でも示しました通り、「青玉」が産出されるという記述がある事や、「青」という漢字の持つ意味は薄い緑色を含んでいる事もありますので、まさに翡翠ですね? また、「句」という文字は「勾」の文字の写し間違いです。草書体で何度も写本される内に、誤字が生じたのでしょう。

 白珠が5000個もあるのに対して、青大句珠はたったの2枚。ガラス玉と翡翠との価値の差を考えれば、当然の事ですね?

 なお日本列島における弥生墳丘墓から出土する宝石類の傾向からもそれが言えます。ガラス玉と翡翠の勾玉はほとんどセットになって見つかっているのです。大量のガラス玉とほんの数個の翡翠勾玉。といった具合です。

 

 さて、この壹與の朝貢の記録を以って、突然、魏志倭人伝が終了してしまいました。

なんだか尻切れトンボでしたね?

 これは、壹與が朝貢した時代が、中国では魏が滅んで晋という国に変わっていたからでしょう。

晋起居注(しんききょちゅう)という晋の時代の歴史書に、壹與からの朝貢の記録が記されている事から、確かな事です。

 魏志倭人伝はあくまでも魏の時代の事を記した書物です。晋の時代の話は関係ありませんので、その辺は明確に分けて記述したという事なのですね? 著者の陳寿、偉いです。

 いかがでしたか?

これで魏志倭人伝の内容は一通りトレースしました。しかし私のこのシリーズは、まだまだ終わりません。個々の記述を別々に考察しても全体像がぼやけてしまいますので、これからはマクロな視点から見た魏志倭人伝の全体像を考えて行きます。まずは、倭国から魏への朝貢と魏から倭国への使者の行き来が不明瞭な部分が多いので、このあたりの時代的な流れと登場人物を整理して行きます。

邪馬台国チャンネル

壹與か臺與か

 卑弥呼の宗女については、私は「イヨ」と呼んでいます。多くの研究者はこれを「トヨ」と呼んでいます。

壹と読むか、臺と読むかの違いです。まあどっちでも良いのですが。

魏志倭人伝の研究の元ネタになった中国の10世紀の書物「紹煕本」には、「壹」と書かれていますので、壹與が正解です。ただし、邪馬台国の臺についても同じく「壹」になっていますので、本来「ヤマイコク」と読まなければなりませんね? この辺はグレーですね。魏志倭人伝が書いてある三国志よりも後に成立した後漢書には、邪馬台国。隋書にも邪馬台国と記されています。この事から三国志では、「臺」を「壹」へと書き間違えた可能性が指摘されています。

どちらが正しいかは確定できるものではありません。

 宗女・壹與についても、「タイヨ」かも知れないし、「トヨ」かも知れない。という程度の事です。

私の場合、最初に「イヨ」と呼んでしまったので、未だにそう呼んでいるだけです。