〇〇天皇こそが卑弥呼のライバル狗奴国の男王

 邪馬台国チャンネルへようこそ。魏志倭人伝を読み進めて、42回目になります。倭国の政治状況の記述の中で、これからがいよいよ重要な局面へと入って行きます。それは、邪馬台国のライバル狗奴国との関係です。その当時は頻繁に戦争が起こっていたようです。また、狗奴国の男王は卑弥弓呼素(ひみここそ)という記載があります。狗奴国は近畿地方ですので、この男王は記紀に登場する神話の天皇の可能性が大きいですね?

 まず、これまで読み進めてきた魏志倭人伝の概要を示します。

大きく3つの章に分けられており、

 最初は、諸国連合国家である女王國について。

次に、倭人の風俗習慣について。

最後に女王國の政治状況について。

 となっています。周辺諸国の話は、この章からです。

 これまでに読み進めた内容を要約します。

邪馬台国までの行路では、このような道程が示されていました。その間にある20ヶ国の旁國を含めた30あまりの国々が連合して「女王國」が成り立っており、その中の一つ、女王の都が邪馬台国です。

 行路の記述では、九州島の最初の上陸地点である末蘆国から、最終目的地の邪馬台国まではずっと、90度の誤りがあります。これは女王國が、海岸線の情報を魏の使者たちに知られまいとし、その作戦が功を奏したからです。

 女王國に敵対していた狗奴国については、南に位置すると書かれていますので、90度ずれた東に位置する近畿地方を指しているようです。

 また、帯方郡から女王國までの距離が12000里という記述も正確でした。

  風俗習慣の記述では、魏の使者が見聞した様々な事柄が記されています。

北部九州の伊都国(現在の福岡県糸島市)に留め置かれていましたので、ほとんどが九州の風俗習慣です。倭人の身なり、絹織物の生産、鉄の鏃を使っている、などという描写です。

また、日本列島の気候風土とは全く合致しない記述もありました。それは、倭国はとても温暖で冬でも夏でも生野菜を食べている、みんな裸足だ、という記述で、それらは中国南部の海南島と同じだとされています。

 方角を90度騙された魏の使者の報告書から、どうやら著者の陳寿が「倭国は南の島である」、という勝手な思い込みをしていたようですね? 海南島のイメージで倭人伝を書いてしまったようです。植物に関する記述でも、広葉樹のみが記されている事からも分かります。

 さらに人々の生活については、父母兄弟は別な場所で寝起きする、赤色顔料を体に塗っている、食事は器から出掴みで食べている、人が亡くなった際のお墓の形式・お葬式の風習、食べ物には薬味を使っていない、猿やキジがいるのに食料にしていない、占いは骨卜、お酒を飲む習慣、一夫多妻制、規律正しい社会である事、などかなり詳細な部分にまで及んでいました。

 倭国の政治状況の章に入ると、一大率という検察官を置いて諸国に睨みを利かせていた伊都國。卑弥呼に関する記述。 そして、女王國の周辺諸国の話となり、コロボックルが住んでいた侏儒国、船で一年も掛かる裸国や黒歯国の話へと続きました。

 さらに、倭国の一回目朝貢に対しての魏の皇帝からの詔、豪華な下賜品の数々、魏の使者が倭国へ詣でた様子、倭国の二回目の朝貢の記録へと進みました。

 さらにその先には、倭国と敵対していた狗奴国についての記述があります。

    其八年太守王頎到官

  倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素 不和 

    遣倭載斯烏越等詣郡、説相攻撃状。

「その八年、太守、王頎(おうき)官に到る。倭女王卑弥呼は狗奴国男王、卑弥弓呼素(ひみここそ)と和せず。倭は載斯烏越(さいしうえつ)等を遣はし、郡に詣り、相攻撃する状を説く。」

 その八年とは、二回目の朝貢があった正始という年号の八年という意味です。正始八年(西暦247年)、二回目の朝貢から四年後の事です。

 朝鮮半島・帯方郡の太守は王頎(おうき)という人物に代わりました。

倭の女王・卑弥呼は、狗奴国の男の王様である卑弥弓呼素(ひみここそ)とは仲が悪かったとあります。倭国は、載斯烏越(さいしうえつ)という人物を帯方郡へ派遣して、互いに攻撃しあっている状態であることを説明しました。

 この文章から、魏の国が倭国日本との交渉窓口は、都・洛陽ではなく、朝鮮半島の植民地の帯方郡だった事が分かります。もはや洛陽までは行っていません。帯方郡のトップは王頎(おうき)に代わり、そこへ倭国の状況を説明しに、載斯烏越(さいしうえつ)という人物が詣でた事になります。

 また、ライバル狗奴国の王様の名前もここで初めて登場しました。卑弥弓呼素(ひみここそ)という人物です。なんだか卑弥呼を複雑にしたような名前ですね? 彼については、ここで一回登場するだけですので、男の王様であるという事だけしか分かりません。

 狗奴国の王様・卑弥弓呼素(ひみここそ)について想像してみましょう。

狗奴国は奈良盆地や河内平野などの近畿地方の事です。すると卑弥弓呼素(ひみここそ)という男王は、古事記や日本書紀に登場する神話の天皇の可能性がありますね?

 時代としては、第十代から第十五代天皇あたりでしょうか?

卑弥呼は、第十四代仲哀天皇の妻・神功皇后です。すると、夫に当たる人物が敵対していた事にはならないでしょう。

また、第十五代応神天皇は卑弥呼の息子になります。彼もまた敵対した人物には当たらないでしょう。

可能性として最も高いのは、第十代・崇神天皇です。

 彼は、祭祀、軍事、内政において近畿地方の基盤を整えたとされるされる架空の人物です。ただしその存在にも元ネタがあったとすれば、後進地域だった近畿地方がようやく国家としての体を成した最初の王様だという事になります。

 また、記紀というお伽話の出来事ではありますが、邪馬台国・越前や、投馬国・丹波へ将軍を派遣した記述もあります。すなわち、日本海地域を支配していた女王國との対立があった事を窺わせます。すると、ライバル狗奴国の王様として最もふさわしい人物は、崇神天皇という事になりますね?

 なお将軍の派遣は、東海地方や吉備地方にもなされており、それら四人で「四道将軍」と呼ばれているのは有名ですね?

 魏志倭人伝にはライバル狗奴国の王様について、卑弥弓呼素(ひみここそ)という名前しか記していません。

しかしながら、狗奴国だった近畿地方には、古事記や日本書紀というお伽話が満載の歴史小説があります。これを活用しない手はありません。そういった内容を結びつけて行けば、当時の倭国日本の全体像がおぼろげながら見えてきますよね?

 なるほど? 憎き狗奴国の卑弥弓呼素(ひみここそ)は、崇神天皇だった訳です。

 さて、このように倭国の使者が、女王國と狗奴国とが戦闘状態である事を訴えました。それに対して、帯方郡からは、改めて使いの者がよこされました。

  遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢 拝假難升米 為檄告喩之

「塞曹掾史(さいそうえんし)張政等を遣はし、因りて詔書・(こうどう)を(もたら)し、仮難升米に拝し、檄を為(な)りてこれを告諭す。」

#魏の国としては女王國を応援すべく、塞曹掾史(さいそうえんし)という官職の人物を倭国へ遣わしたとされています。張政という人物です。彼は、魏の皇帝の詔や、黄幢(こうどう)という黄色い旗を倭国へ持って行きました。そして、仮の難升米に授け、檄文をつくり、これを告げて諭した。@@@とあります。

#女王國と魏の国との友好関係が顕著に現れた事例ですね? 

#ここで黄幢(こうどう)について考えてみましょう。単なる黄色い旗のようですが、何の役割があるのでしょうか? @@@そんな物を貰うより、強力な軍隊や資金を援助してもらった方が、女王國としては喜ぶのでは? と思いませんか?

 まず軍隊は無理ですね。交通手段や道中の食料などの問題もありますが、そもそも女王國としては嬉しい事ではないでしょう。女王國と友好関係を結んだとは言え、魏という国は巨大な帝国です。いつ寝首をかかれるやもしれません。強力な軍隊を倭国に引き入れたなら最後、倭国は魏の植民地にされてしまうからです。

 一方、資金については、魏の国から絢爛豪華な下賜品がすでに授けられていましたので、もはや必要は無かったでしょう。魏の国としても、女王國に対して湯水のように資金提供する義理もありませんしね?

 すると、この黄幢(こうどう)というのは、簡素なようで意外に重要な役割りを果たしたと思えます。

 黄幢(こうどう)とは、おそらく「錦の御旗」の役割りだったと考えられます。

女王國サイドは、背後に魏という強大な勢力が味方している。これに抵抗しようものなら、魏の国をも敵に回してしまう。狗奴国サイドとしては、無駄な殺し合いは止めて、女王國の軍門に下った方が良い。

そういう判断を狗奴国サイドに引き起こさせる役割があったのだと考えます。

 現代の歴史小説の話ですが、江戸時代の幕末の薩長連合と幕府軍との戦いで、同じような物語りが書かれています。

薩長連合の朝廷懐柔が功を奏し、錦の御旗を得ました。つまり、薩長が官軍として認められたのです。戦いの際に、この錦の御旗を掲げると、幕府軍の兵隊たちは、「自分たちは賊軍だ」、と思い込み、一気に士気が低下してしまった。という話です。実際にそのような事が起こったかどうかは分かりませんが、戦争の際に自分たちの行いが正しいと思わせる大義名分なり、錦の御旗なりがあれば、兵隊たちの士気の盛り上がり方は全く違ったものになるのは想像に難くありません。

 昨今の戦争でも、同じような事をやっていますね? ロシアは極悪非道という印象操作がなされているのも、「錦の御旗」と同じ理屈でしょう。

 

 いかがでしたか?

崇神天皇が派遣した四道将軍は、邪馬台国と投馬国の他にも、東海地方と吉備の国にも配置されたとなっています。東海地方は、古代の強力な氏族・尾張氏の地盤で、日本海勢力と非常に強い結びつきがあります。いわば女王國サイドと言える地域です。一方、吉備の国は近畿地方とは文化的な共通点が多く見られます。それにも関わらず、吉備征伐などで敵対したとされています。どうやらこの時期、狗奴国・近畿は、完全に孤立していたようですね?

邪馬台国チャンネル

戦争はいつの時代も情報戦争

 今回の動画で、魏の国から貰った黄幢(こうどう)という黄色い旗について考察しました。そもそも旗というのは、戦いで士気を高める為の必需品ですよね? 現代のスポーツなどの応援合戦でも必ず旗を振ります。気持ちを高揚させる役割があるのでしょう。

 天皇家の軍隊を意味する「錦の御旗」というのも、強烈なインパクトがあったのでしょうね? それを見ただけで民衆がひれ伏してしまうほどの力があったのでしょう。

 魏から貰った黄幢(こうどう)も、女王國にとっては一万人の軍隊にも匹敵するくらいの効果があったでしょうし、狗奴国にとっては戦意を喪失するくらいの力があったのでしょう。

 まあ現代の戦争で、旗を振る事はありませんが、その代わり「情報の旗」を振っていますよね?

最近はテレビを付ければ、いかにロシアは悪者か、いかにウクライナは可哀そうか、なんて話ばかりです。何が本当なのか、私にはわかりませんが、戦争っていつの時代もそんな感じなんでしょう。

 太平洋戦争では「鬼畜米英」なんて事を言って、広めて、日本人の心を一つにまとめていましたから。

1800年前の戦争でも、黄幢(こうどう)という黄色い旗を振って、心を一つにまとめていたのでしょうね?