一夫多妻も規律正しく

 邪馬台国チャンネルへようこそ。魏志倭人伝を読み進めて、28回目になります。

倭国の風俗習慣の記述に入っていますが、今回は、倭人たちが長寿だった事や、規律ある社会構造を既に構築していた事、などの描写です。現代の日本人社会にも通じる素晴らしい風俗習慣が、そこには書かれています。中国・魏の使者たちの目には、野蛮で辺鄙な島国だとばかり思っていた倭国が、実はとても侮れない存在だと映ったに違いありません。

 これまでに読み進めてきた魏志倭人伝の内容を簡単に振り返ってみます。

まず邪馬台国までの行路では、この図のような明確な道程が示されていました。その間にある20ヶ国の旁國。これらをすべて含めた30あまりの国々が連合して「女王國」が成り立っており、その中の一つ、女王の都が邪馬台国です。

 行路の記述では、九州島に上陸してからはずっと、90度のずれがあります。これは、魏の使者たちが女王國に騙されたからです。倭国の海岸線の情報は最重要機密ですので、それを知られまいとした作戦が功を奏したようです。

 なお、女王國に敵対していた狗奴国については、南に位置するとだけしか書かれていませんので、90度ずれた東に位置する近畿地方を指しているようです。

 また、帯方郡から女王國までの距離が12000里という記述も正確でした。

  風俗習慣の記述では、魏の使者が見聞した様々な事象が記されています。

北部九州の伊都国(現在の福岡県糸島市)に逗留していましたので、ほとんどが九州の風俗習慣でした。倭人の身なり、絹織物の生産、鉄の鏃を使っている、などという描写です。

また、日本列島の気候風土とは全く合致しない記述もありました。それは、倭国はとても温暖で冬でも夏でも生野菜を食べている、みな裸足だ、という描写で、それらは中国南部の海南島と同じだとされています。

 方角を90度騙された魏の使者の報告書から、どうやら著者の陳寿が「倭国は南の島である」、という勝手な思い込みをしていたようですね? 海南島のイメージで倭人伝を書いてしまったようです。

 自然環境の記述でも、広葉樹のみが存在していて南の島である事が強調されていましたので、その思考回路が明らかです。

さらに人々の生活については、父母兄弟は別な場所で寝起きする、赤色顔料を体に塗っている、食事は器から出掴みで食べている、人が亡くなった際のお墓の形式・お葬式の風習、食べ物には薬味を使っていない、猿やキジがいるのに食料にしていない、占いは骨卜、お酒を飲む習慣、などかなり詳細な部分にまで及んでいました。

 さらに、倭国の風俗習慣の描写が続きます。

見大人所敬 但搏手 以當跪拝 

「大人を見て敬する所は、ただ手をたたき、以って跪拝(きはい)に当てる。」

目上の者に対して敬意を表すときは、跪いて拝む代わりに、手をたたくだけだったようです。

お辞儀をしたり土下座したりするという、現代の作法とは異なりますね。そもそもお辞儀という作法は、儒教の影響を強く受けた朝鮮人が始めた悪しき習慣ですので、日本固有のものではありません。

 目上の者に手をたたくというのは、一見無礼に思えますが、神道と共通する素晴らしい作法です。

お辞儀の習慣が日本に入って来るずっと前には、神社や神棚に向かって柏手を打つという、日本固有の作法の原点がこの頃には既に出来上がっていたようですね? 邪馬台国の時代にそんな作法が存在していたのには驚きです。

 なお、柏手を打つのは、神様を呼び出す合図ではなく、手に武器をもっていない、敵意が無い事を示すための作法だそうです。欧米人が握手をするのと、基本的に同じですね?

其人壽考 或百年 或八九十年

その人は寿考にして、或いは百年、或いは八、九十年なり。」

倭人はとても長生きしていたようです。八十歳、九十歳のものだけでなく、百歳を超える者もいたようです。

これは素晴らしいですね? 倭国はそれだけ平和だったという事でしょうか?

しかし、本当にそんなに長寿だったとすれば、古代史に対する認識を変えなければなりません。

それは、初期の天皇の年齢です。初代神武天皇が126歳で崩御されたのは有名ですが、第25代天皇までも、100歳を超える天皇がゾロゾロいらっしゃいます。生物学的にこれは有り得ないな? と思っていたのですが、魏志倭人伝の記述が正しいとすれば、日本書紀に記されている天皇記も、あながち嘘ではないかも知れませんね?

  其俗 國大人皆四五婦 下戸或二三婦

  婦人不淫不妬忌 不盗竊少諍訟

  其犯法 輕者没其妻子 重者没其門戸及宗族

  尊卑各有差序 足相臣服

「その俗、国の大人は、皆、四、五婦。下戸は或いは二、三婦。婦人は淫せず、妬忌せず。盗竊せず、諍訟少なし。その法を犯すや、軽者はその妻子を没し、重者はその門戸及び宗族を没す。尊卑はそれぞれ差序ありて、相臣服して足る。」

 倭人の習俗では、国の大人はみな四、五人の妻を持ち、下戸でも二、三人の妻を持っているとの事です。

一夫多妻制ですね? しかし上層階級だけでなくて、下層階級でも一夫多妻というのは不思議です。その当時、男の子の出生率が極端に低かったのか? あるいは、男の死亡率がとても高かったのか?

 生物学的に、オスとメスが生まれるのは半々ですので、男の死亡率が極端に高かったのでしょう。男に生まれるのは可哀そうではありますが、生き残った男は幸せでしたね?

 女性は、貞節で淫らではなく、嫉妬はしないし、盗みもしない。争いごとも少ない。との事です。

現代に通じる日本人女性の姿ですね? 素晴らしいです。

 ちなみに、魏志東夷伝の高句麗や挹婁の記述では、「淫ら」だという記述があります。高句麗人や挹婁人は現代の朝鮮人のご先祖様に当たる民族ですので、民族性というのは、この時代から何も変わっていないという事ですね?

 犯罪を犯した場合には、軽いものは妻や子供を没収する。重いものは一族郎党を没収する。とあります。

厳しい掟があったようですね? いつの時代も、どんな民族でも、必ず犯罪を犯す者は出てきます。しかし、それに対してしっかり処罰する事によって、治安が保たれ、規律ある社会になるものです。

 ここでもまた、現代の犯罪がとても少ない日本人社会に重なるものがありますね?

 尊ばれる者・卑しい者にはそれぞれ差や序列があって、上の者にそれぞれ臣服して保たれている。とあります。

弥生時代という農耕社会は、階層構造の序列関係が生まれた時代です。これは組織立って、農地開拓や農業生産を行わなければならなかったので、仕方のない事です。現代社会でも同じですね?

 この当時の日本列島にはまだ、儒教という上下関係を厳しく律する考え方は伝播していませんでした。それにも関わらず、この記述のような規律ある階層構造が自然発生的に生まれていた、というのは、さすがは日本人のご先祖様ですね?

収租賦有邸閣 國國有市交易有無 使大倭監之

「祖賦を収め、邸閣あり。国国は市ありて、有無を交易す。大倭をしてこれを監ぜしむ。」

当時の倭国では既に、租税をを徴収していたようです。江戸時代の年貢米の徴収制度の原点のようなものが、弥生時代には既に存在していた訳です。

 徴収した収穫物は、邸閣と呼ばれる高床式の大倉庫に保管されていました。

また驚く事に、このころすでに「市」が設けられて、商取引が行われていたようです。

16世紀・戦国時代の楽市楽座は有名ですが、3世紀には既に商業活動も始まっていたの訳です。「市」を開くというのは国が活気づく活動ですので、邪馬台国の時代も、倭国日本は、結構元気な国だったのかも知れませんね?

 いかがでしたか?

倭人の風俗習慣については、海南島のような南の島と同じだという著者・陳寿の妄想が多分に含まれています。しかしながら、規律正しくて淫らではないという記述などは、現代の日本人に通じる風俗だと言えるでしょう。このような記述を読むと、魏志倭人伝は間違いだらけだとは言えませんね?

 今回までで、倭国の風俗習慣に関する記述は終了です。次回からは、当時の政治状況に関する記述へと入って行きます。

邪馬台国チャンネル

陳寿は優れた歴史作家

 三国志の著者・陳寿は、すごい人ですね。元々、蜀の国の文官だった人物で、三国が滅んだ後の晋の時代に、三国志を纏まあげたとされています。その分量は膨大で、魏志倭人伝なんかはその中のほんの一部に過ぎません。中国を中心とした東アジアの、ありとあらゆる知識を持っていたのでしょう。倭人伝に関しては、魏の時代の報告書のような物があって、あるいは魏書とか魏略とかいう既に書かれていた書物があって、それを元に妄想を膨らませて書き上げたものだと思います。海南島と同じだなんていうのは、完全に事実とはかけ離れていますよね? しかし正しい部分もたくさんあります。

 三国志は、中国正史と認定されていますが、事実が書かれているから「正史」という訳ではありません。事実に基づいた歴史小説としての価値が認められたからこそだと思います。そういう意味では、日本の古事記や日本書紀と同じですね? 何らかの事実があって、それを元にファンタジーを膨らませて書かれた歴史小説、ですものね?

 なお、三国志演義という三国志を元に、さらにファンタジーを膨らませた歴史小説もあります。これは15世紀頃に書かれたものですので、歴史的事実からは、完全に乖離しています。レッドクリフという映画で有名な赤壁の戦いなんかは、当時の稚拙な造船技術を完全に無視した、お伽話の世界です。