邪馬台国への行路。不彌國⇒投馬国 出雲は無視された?

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古代史最大のミステリー、邪馬台国の場所はどこにあったのでしょうか?

これまでに、魏志倭人伝に従って九州の不彌國・宗像エリアに到達しました。その次の投馬国へは、日本海航路を使った「水行20日」である事が分かりました。

今回は、この投馬国の場所がどの位置にあるかを推測して行きます。

  まず、これまでに辿って来た行路を示します。

魏の植民地だった朝鮮半島の帯方郡を出発して、狗邪韓国、海を渡って対海国。一大國。、末蘆国。

 ここからは九州島の陸路で、末蘆国から伊都國。奴国。不彌國に到着しました。そして今回、不彌國から東方向へ船で20日間移動して、投馬国に至る事になります。

 なおこの行路では、九州島の最初の上陸地点・末蘆国からはずっと、魏志倭人伝の方角の記載に90度の誤りがありましたので、修正しています。つまり末蘆国から伊都國、および伊都國から奴国へは、魏志倭人伝には「東南」という方向が記されていますが、実際には北東方向。さらに奴国から不彌國へは、「東」という方向が記されていますが、実際には北方向。となります。

 さらに不彌國から投馬国へは「南」という方向が記されていますが、実際には東方向です。

不彌國から東方向へ海を渡って行ったとすれば、瀬戸内海航路と日本海航路の二つの選択肢がありましたが、海峡だらけという瀬戸内海航路の困難さや、邪馬台国時代の造船技術の稚拙さ。日本海航路の対馬海流の活用。さらには考古学的に、日本海側の弥生時代の遺物が、質・量ともに圧倒的に優れている事を鑑みれば、日本海航路を進んだ事に間違い事が分かりました。

 では実際に、投馬国の場所はどこだったのでしょうか?

今回もさまざまな角度から検証して行きます。

 あらためて魏志倭人伝の投馬国に関する記述を見てみましょう。

南至投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸

「南、投馬国に至る。水行二十日。官は弥弥(ミミ)と曰い、副は弥弥那利(ミミナリ)と曰う。五万余戸ばかり。」

不彌國の記述のすぐ後に記されていますので、当然ながら不彌國から20日間の船旅だった事が分かります。方角は、さほど述べましたように、九州島に上陸してからはずっと90度のズレがありましたので、実際には東方向に進んだ事になります。

 しかし、投馬国への水行20日というのは、あまりにも大雑把ですね。この大雑把さが、様々な曲解を生んだ原因になっているのです。

 また、記述の内容もシンプルです。これは、女王國の玄関口である「伊都国」までが詳しく述べられているのに対して、その後の、奴国、不彌國、投馬国、さらには最終目的地の邪馬台国に関する記述は、いずれも単純です。この事から、魏の使者たちは実際に邪馬台国までは行ってはおらず、伊都國に逗留しながら倭人たちから情報を得た、という説の根拠になっています。

 では、日本海を対馬海流に乗った沖乗り航法で進んだとして、投馬国の場所を見つけて行きます。

 なお九州説支持者の間では、伊都國を起点とした「放射説」なる曲解に人気がありますが、ここでは無視して、単純に読み進めて行く事にします。

 不彌國・宗像エリアから水行二十日というのは、一気に航海する様子。すなわち沖乗り航法が使われた事が示唆されています。これは対馬海流を活用した場合にだけ成り立つ航法です。潮待ちをする必要がなく、港・港に細々と立ち寄っていない事を意味します。

 では、投馬国の場所の、大体の目星を付けてみましょう。

 対馬海流は、西から東へ1ノット程度の速度があります。時速約1.85キロです。

沖乗り航法の場合には、港に立ち寄る必要が無いので、24時間の航行となります。これを20日間ですので、480時間。

 単純計算すれば、動力無しの海流の作用だけで、888キロも進める事になります。

これは、不弥国・宗像エリアから能登半島の先っちょまでの距離に相当します。

但し、20日間常にコンディションが良いわけではなく、悪天候の場合や、食料・水を調達する為に港に立ち寄る必要もありますので、距離は短くなります。

一方、太陽が昇っている時間には、船乗り達による動力が加算されますので、距離は長くなります。

 この辺の状況は、魏志倭人伝には全く記されていないので、推測するしかありません。

ちなみに考古学的には、能登半島から出雲半島に掛けては「弥生の銀座通り」とも呼べるほどの、顕著な弥生遺跡が多数発見されている地域です。どこを投馬国に比定しても、おかしくない地域です。

 そんな中で、どうしても私の主観が入ってしまいますが、但馬から丹後半島あたりが、投馬国ではないか、と推測します。理由は後で述べる事として、ここで気になるのは、「出雲の国」の存在です。

 出雲は良く知られているように、古事記の神話で有名ですし、弥生時代の出土品でも銅鐸が日本一多く見つかっています。また、四隅突出型墳丘墓という弥生時代の典型的な大型墳丘墓が多く発見されている場所でもあります。

 この地域を差し置いて、但馬や丹後へ飛んでしまって良いものでしょうか?

私は問題ないと考えます。それは、弥生時代の出雲は、イメージ先行の過大評価だからです。

 まず文献史学的に、出雲の国は高志の国の植民地だと考えられます。古代史研究家の間では出雲信仰がありますが、冷静に古文書を読み返してみると、出雲の国は越の国の支配下に置かれていた姿が浮かび上がってきます。なお高志の国とは、現在の北陸地方・福井県や石川県の事で、現代では「越」という漢字を使いますので、そちらの方が馴染みがあると思います。

 出雲風土記の冒頭にある「国引き神話」には、出雲の国は、高志をはじめ、「シラキ」、「キタドノサキ」、「キタドノヌナミ」という、4つ国から作られたとされています。つまり、高志の国、朝鮮半島の新羅、沿海州の「キタドノサキ」、「キタドノヌナミ」という国々の人たちによって作られたという事です。

 高志の国との関係は、さらに具体的な記述もあります。出雲平野の治水工事の為に、高志の国から人々がやって来て、干拓事業を行ったという記述です。そして彼らが住み着いた場所は、「古志」という地名で現代にも受け継がれています。出雲平野での主要な弥生遺跡が発見されている「古志遺跡群」を始めとして、島根県内には今も多くの場所に「古志」という地名が残っています。

 このように、出雲の国は高志の国の植民地だった可能性が高い場所です。

さらにそれを確実に裏付けるのは、古事記の出雲神話の最も有名な物語りです。

高志之八俣遠呂智

「高志の八俣遠呂智、年ごとに来たり」

八つの頭と、八つの尾を持つ八俣遠呂智という怪物が、出雲に毎年やって来て、娘をさらってしまう。という物語です。

これは、高志の国という地名を明記していますので、明らかに福井県あたりの北陸地方からの軍隊がやって来て、出雲の収穫物を奪って行ってしまう、という厳しい植民地政策があった事を描写しているのです。

 また考古学的にも、出雲はイメージが先行しすぎています。特に、鉄器類をはじめとする豪族が持っていて然るべき「威信財」がほんの僅かしか発見されていない事からも、それが言えます。出雲では、たたら製鉄という古代の製鉄技術が有名ですが、これは古墳時代の6世紀以降のものですので、弥生時代には存在していません。また、銅鐸の出土は多いものの、これは権力者が持つ威信財ではなく農地開拓に使う測量器や水準器のような実用品ですので、王族がいた根拠にはなりません。

 さらに、四隅突出型墳丘墓という弥生時代を代表する墳丘墓がたくさん見つかっていますが、これも強力な勢力がいた事の根拠にはなりません。なぜならば、この墳丘墓の起源は高句麗にあり、そこを追い出された人々がリマン海流や対馬海流に流されて辿り着いた先が、出雲だったと考えられるからです。

 先に述べました「出雲国引き神話」に見られる「キタドノサキ」、「キタドノヌナミ」という国々の人たちのお墓が、四隅突出型墳丘墓に当たるという事です。

 これらの事から、現代における出雲の国は、かなり過大評価されているといえるでしょう。

魏志倭人伝の邪馬台国への行路においても、出雲の国は軽視されて飛ばされていたと見る方が自然です。

では、投馬国はどこか? それは、先ほど述べましたように、但馬・丹後エリアです。ここには、強力な王族が存在していた事を証明する様々な威信財が発見されています。また、音韻的にも似通っています。

 具体的に話は、次回に持ち越す事にします。

いかがでしたか?

明治時代には、出雲が投馬国であるとした古代史研究家もいました。山田孝雄(やまだよしお)という歴史学者です。

その際には、投馬国の事を「つま国」という読み方を用いて、強引に自説を主張していました。また、同じく明治時代の九州説の先駆者・白鳥庫吉も、投馬国の事を「つま国」と読ませて、日向の国・宮崎県の「妻」という場所を、投馬国に比定していました。現在でも、投馬国を「つま国」と読ませる研究者は、少なからず残っているようです。

 次回は、但馬・丹後エリアを投馬国と比定した理由を述べて行きます。

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