倭国大乱 「倭國亂相攻伐歴年」熊襲征伐? 狗奴国?

 邪馬台国チャンネルへようこそ。魏志倭人伝を読み進めて、31回目になります。

前回から卑弥呼に関する記述に入っています。卑弥呼の考察をする前に、江戸時代に翻訳された内容に誤りがありましたので、まずは指摘しました。「卑弥呼は共立された」、という誤訳です。現在も一般的に、「卑弥呼は話し合いで擁立された」と認識されていますが、決してそうではありません。卑弥呼は、自ら王になったのです。

 今回は、卑弥呼が王になる前の、倭国の戦乱状態について考察します。

 魏志倭人伝の全体像から入ります。内容は、大きく3つの章に分ける事ができます。

 最初は、諸国連合国家である女王國について。

次に、倭人の風俗習慣について。

最後に女王國の政治状況についてです。卑弥呼に関する記述は、ここから始まります。

 では、これまでに読み進めた内容を要約します。

 まず邪馬台国までの行路では、この図のような道程が示されていました。その間にある20ヶ国の旁國を含めた30あまりの国々が連合して「女王國」が成り立っており、その中の一つ、女王の都が邪馬台国です。

 行路の記述では、九州島の最初の上陸地点である末蘆国から、最終目的地の邪馬台国まではずっと、90度の誤りがあります。これは女王國が、海岸線の情報を魏の使者たちに知られまいとし、その作戦が功を奏したからです。

 女王國に敵対していた狗奴国については、南に位置すると書かれていましたので、90度ずれた東に位置する近畿地方を指しているようです。

 また、帯方郡から女王國までの距離が12000里という記述も正確でした。

  風俗習慣の記述では、魏の使者が見聞した様々な事象が記されています。

北部九州の伊都国(現在の福岡県糸島市)に留め置かれていましたので、ほとんどが九州の風俗習慣です。倭人の身なり、絹織物の生産、鉄の鏃を使っている、などという描写です。

また、日本列島の気候風土とは全く合致しない記述もありました。それは、倭国はとても温暖で冬でも夏でも生野菜を食べている、みんな裸足だ、という記述で、それらは中国南部の海南島と同じだとされています。

 方角を90度騙された魏の使者の報告書から、どうやら著者の陳寿が「倭国は南の島である」、という勝手な思い込みをしていたようですね? 海南島のイメージで倭人伝を書いてしまったようです。

 自然環境の記述でも、広葉樹のみが記述され、南の島である事を強調していましたで、その思考回路は明らかです。

さらに人々の生活については、父母兄弟は別な場所で寝起きする、赤色顔料を体に塗っている、食事は器から出掴みで食べている、人が亡くなった際のお墓の形式・お葬式の風習、食べ物には薬味を使っていない、猿やキジがいるのに食料にしていない、占いは骨卜、お酒を飲む習慣、一夫多妻制、規律正しい社会である事、などかなり詳細な部分にまで及んでいました。

 倭国の政治状況では、伊都國に関する記述からでした。

伊都國は、千余戸という小国ながらも、女王國の政治の中心地だった事が窺えます。一大率という検察官を置き、諸国が恐れ憚っていたという記述。出入国管理局や税関のような外国との窓口の役割り、などの記述があります。

また魏の使者たちは、この伊都國に留め置かれており、女王の都である邪馬台国までは行っていません。その為に、伊都國こそが女王國の政治の中心部だと誤解していたようですね?

 では本題の卑弥呼の記述に入ります。

其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年

  乃共 立一女子為王 名日卑彌呼

「その国、本はまた男子を以って王と為す。住みて七、八十年、倭国乱れ、相攻伐して年を歴る。すなわち、一女子が立ち王と為す。名は卑弥呼という。」

 とあります。前回は、「共立」という文字を現代日本語の感覚で翻訳してはならない旨を指摘しました。卑弥呼は話し合いによって女王に選ばれた訳では無く、自らの力で女王になったのです。

 今回は、倭国の状況を考察します。

 卑弥呼が女王になる前は、七、八十年もの長期間、戦いが繰り広げられていたようです。この戦いは、倭国大乱と呼ばれる小国同士の小競り合いが起こっていたのか? あるいは、ライバル狗奴国との戦いか? はたまた両方を含めての戦乱状態だったのかも知れませんね?

 この文章だけからは、明確な答えは見出せません。

 倭国大乱については、北部九州の筑紫平野で起こっていた戦いであると推測します。

古事記や日本書紀に記されている神功皇后による熊襲征伐がそれに当たります。神功皇后は、邪馬台国・卑弥呼をモデルとした人物で、三韓征伐や70年に渡る摂政政治を執り行った古代史最強の女傑です。もちろん、考古学的史料はありませんので、お伽話の可能性もあります。しかしお伽話にも元ネタがあったとすれば、この熊襲征伐というのは魏志倭人伝の記述との整合性が取れる事件です。

 物語のストーリーとしては、角鹿笥飯宮(現在の福井県敦賀市)に滞在していた神功皇后は、筑紫平野での反乱を鎮圧する為に、北部九州へ向かいました。戦いのあった場所は、2ヶ所です。筑後川中流域の甘木朝倉地域と、筑後川下流域の山門地域です。それぞれ、羽白熊鷲と田油津媛という豪族を退治したとされています。

 その当時の筑紫平野は、密林地帯や湿地帯でしたので、強力な豪族が出現できる下地はありませんでした。

そんな中で、甘木朝倉地域や有明海沿岸部の局所的な水田適地において、小規模な豪族が発生していた可能性があります。それが羽白熊鷲であり、田油津媛だったという事です。筑紫平野の豪族は、女王國に敵対する抵抗勢力でした。

 そんな小豪族たちが起こした反乱が、魏志倭人伝に記述されている

倭國亂相攻伐歴年

「倭国乱れ、相攻伐して年を歴る」

として記されたのでしょう。時代的にも神功皇后との一致があります。

 この熊襲征伐は、邪馬台国・越前と九州の筑紫平野との戦いですが、250年後の六世紀にも同じ邪馬台国と筑紫平野との戦いが起こっています。継体天皇と磐井一族との戦い、いわゆる磐井の乱です。

 どうやら筑紫平野は、古代日本において、常に女王國に敵対する勢力だったようですね?

 もう一つの可能性を考察します。

倭國亂相攻伐歴年

「倭国乱れ、相攻伐して年を歴る」

というのは、女王國と狗奴国との戦いだった可能性もあります。

これは神功皇后の熊襲征伐のような文献史学からの推測ではありません。考古学的な推測です。

 邪馬台国や投馬国があった日本海沿岸地域は、当時の鉄器出土で群を抜いた先進地域でした。その文化圏は、琵琶湖の北部地域にまで及んでいました。この事から、女王國の支配地域もまた琵琶湖北部を含んでいたと考えられます。

 ところが、琵琶湖南部や奈良盆地、および河内平野などの、いわゆる畿内と呼ばれる地域からは、鉄器の出土はほとんどありません。後に日本の中心地となる畿内ではありますが、邪馬台国の時代には明らかに後進地域でした。

 このように琵琶湖中部を境にして文化的な断絶がありますので、女王國とは別の勢力がそこには存在していたと考えられます。するとそこは、ライバル狗奴国だったと見るのが自然でしょう。

 女王國と狗奴国とは、琵琶湖の北部と南部で常に対峙しており、それが7,80年もの間続いていた可能性もありますね? 但しこの戦いは、邪馬台国の時代には終結していません。

 魏志倭人伝には卑弥呼が王になって争いは収まった様子が描かれていますが、狗奴国との争いは、宗女・壹與の時代も続いています。

 邪馬台国と狗奴国との戦いが終結したのは、六世紀になってからです。邪馬台国の大王・継体天皇が畿内を侵略して征服しました。奈良盆地南部の磐余玉穂宮に都を置いて、歴史上初めて大和王権が誕生しました。これが、邪馬台国と狗奴国との戦いの終結を意味します。

 このように、

倭國亂相攻伐歴年

「倭国乱れ、相攻伐して年を歴る」

という記述からは、様々な状況が推測できますし、熊襲征伐のような日本の古文書との一致も見られます。

 こんな戦乱の世の中だった倭国に、一人の女性が立ち上がります。名前を卑弥呼といいます。

「事鬼道能惑衆 年已長大 無夫壻 有男弟佐治國

「鬼道に事へよく衆を惑わす。年・すでに長大にして、夫婿(ふせい)なし。男弟有りて国を治むるを佐く。」

とあります。

 次回は、卑弥呼の人となりや、「鬼道」などについて考察します。

 いかがでしたか?

邪馬台国九州説では、狗奴国の場所を筑紫平野の南の熊本あたりだとするのが多数派です。実際、熊本北部の菊池盆地は天然の水田適地ですので、古代に強力な豪族が存在していた可能性はあります。また、阿蘇カルデラから採れる酸化鉄・阿蘇黄土を原料として、鉄器の生産も盛んでした。ただし、仮に邪馬台国が筑紫平野だとした場合、神功皇后のような文献史学との整合性は全く無くなってしまいますね? まあ、様々な曲解はされているようですが?

邪馬台国チャンネル

熊本は意外に強力です

 私は元々、九州説支持者でしたので、九州の事はかなり詳しいです。まあ、邪馬台国に興味を持った方が最初に思うのは、「九州以外にあり得ない」、という考えで、私も同じでした。しかし、何年も何十年も古代史を研究していると、九州には大きな勢力は有り得ない、という考えに変わってしまいます。これは私に限らず、ほとんどの人が辿る道です。理由は様々ですが、私の場合は九州の農業生産力でした。あまりにも貧弱だった事が明確に分かって来たからです。

 そんな中で、かなり大きな勢力だった可能性があると見込んだのは、熊本です。熊本平野や八代平野などの大きな平地がありますが、そこが中心地ではありません。その辺はまだほとんどが海の底でした。中心地だったのは、菊池盆地です。

 菊池盆地は、現代でこそ比較的狭い平地なのですが、弥生時代はトップクラスの広い水田適地でした。近畿地方の河内平野や奈良盆地南部と同じように、元々巨大淡水湖があった場所ですので、天然の状態でも水田稲作が可能な土地でした。これは、九州全域で最も良い条件です。直方平野とか日田盆地のような広い水田適地がありますが、それを上回る規模です。

 それと、阿蘇黄土を原料とした鉄器生産も行われていたようですので、先進地域だった事は間違いありません。

 菊池盆地のこういう条件から、邪馬台国熊本説、というのも飛び出しています。これは筑紫平野などを邪馬台国に比定するよりも、かなり説得力がありますね。