邪馬台国の根拠 七萬餘戸の農業生産

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古代史最大のミステリー、邪馬台国の場所はどこにあったのでしょうか?

魏志倭人伝の記述に従って正確に行路を辿ってみると、邪馬台国の場所は九州でも近畿でもない、意外な場所でした。

北陸地方の越前です。越前の地は、魏志倭人伝の行路に一致しているだけでなく、ほかの様々な要素とも合致しています。今回は、「七萬餘戸」という国の規模を農業生産の視点から考察します。

  まず、これまでに辿って来た行路を示します。

魏の植民地だった朝鮮半島の帯方郡を出発して、狗邪韓国、海を渡って対海国。一大國。末蘆国。

 ここからは九州島の陸路で、末蘆国から伊都國。奴国。不彌國。そして、不彌國からは船で20日間移動して、投馬国。さらに船で10日間移動して、邪馬台国に至りました。

 なおこの行路では、九州島の最初の上陸地点・末蘆国からはずっと、魏志倭人伝の方角の記載に90度の誤りがありましたので、修正しています。末蘆国から伊都國、伊都國から奴国へは、魏志倭人伝には「東南」という方向が記されていますが、実際には北東方向。奴国から不彌國へは、「東」という方向が記されていますが、実際には北方向。さらには、不彌國から投馬国、および投馬国から邪馬台国へは、「南」という方向が記されていますが、実際には東方向となっています。

 魏志倭人伝の行路を単純に読み進めて行くと、邪馬台国の場所は北陸地方の越前・現在の福井県から石川県に掛けての地域になります。今回はこの地が邪馬台国である事のさらなる検証を行います。

 邪馬台国に関する記述は、とても淡泊で、ヒントは僅かしかありません。

南至邪馬壹國。女王之所都。水行十日・陸行一月。官有伊支馬。次曰彌馬升。次曰彌馬獲支。次曰奴佳鞮。可七萬餘戸。

「南、邪馬壱国に至る。女王の都する所。水行十日、陸行一月。官有り伊支馬(イシバ)。次は弥馬升(ミマショウ)と曰う。次は弥馬獲支(ミマカシ)と曰う。次は奴佳鞮(ナカテ)と曰う。七万余戸ばかり。」

 女王の都である事。投馬国からの行程。官職が四人。そして、七万余戸という家の戸数だけです。行程については一致しましたし、都である事や官職については地域を特定できませんので、残るは七万余戸という国の規模です。

 魏志倭人伝の中では最大規模で、次に投馬国の五万余戸、奴国の三万余戸となっています。この数値が実際に数えたものかどうかは疑わしいものの、倭国全体の中で最も大きな國だった事は想像できます。

 では、七万余戸とはどれくらいの規模の国家だったのでしょうか? 弥生時代は竪穴式住居に一家族が住んでいたと考えられます。一戸当たり六人から八人住んでいたとすれば、総人口は42万人から56万人になります。

現代でこそ、50万人の国は小さなものですが、当時としては超大国だったはずです。人口規模を研究している専門家の推測では、邪馬台国時代の日本列島の総人口は50万人から100万人位だったとしていますので、その大部分が邪馬台国に住んでいた事になります。

 なお、邪馬台国時代の日本列島の総人口推計は、当時の食料事情によるものです。水田稲作という強力な人口扶養力を持つ穀物栽培が始まったとはいえ、日本列島全域ですぐに行われるようになった訳ではありませんので、妥当な数字だと思います。

  ちなみに、水田稲作が始まる前の縄文時代では焼畑農業や狩猟による食料調達が主体でしたので、さらに人口は少なく、日本列島全域でもせいぜい5万人から10万人位だったと推測されています。

 では、邪馬台国があった西暦200年頃に、人口が50万人近くもあった地域を推測してみます。これは農業生産力から求める事ができます。

日本で最初に農業生産力を石高という形で数値化したのは、16世紀の豊臣秀吉による太閤検地ですが、その後の徳川家康による慶長郷帳からが正確なものとされています。この慶長郷帳と明治時代初期の石高数値を用いて、265年間の推移が分かります。そしてこの石高推移が、弥生時代から一定のペースで伸びてきたと仮定すれば、邪馬台国時代の石高が分かる事になります。

 なお、人間一人を養えるだけでの農業生産力が一石とされています。つまり、50万人の人口がいたとすれば、50万石以上の石高が必要だったという事になります。

 実際にグラフで示して行きます。横軸が西暦で、縦軸が石高です。

 サンプルとして、近畿地方の邪馬台国の有力候補地である大和の国、九州地方の有力候補地である筑後の国、そして越前の国。さらに参考として、現代の巨大な穀倉地帯である越後の国を示します。

 慶長郷帳では、大和が44万石、筑後が30万石、越前が68万石、越後が45万石。明治時代-初期には、それぞれ50万石、54万石、69万石、115万石。となっています。

これらの江戸時代265年間の石高推移が、1800年前の邪馬台国時代から同じように直線的に増加していたと仮定します。すると、大和、筑後、越後の三国は、このようにほとんど農業生産が無かった事になってしまいます。ところが、越前の国だけは、64万石ありました。つまり、64万人もの人口が、邪馬台国時代には既に、越前の国には存在していた事になります。なお、越前の国は地学上、特殊な成り立ちをしており、天然の状態でも大規模に水田稲作が行える土地でした。具体的には別の機会に詳細を述べる事とます。今回はこの石高推移からも、天然の水田適地である越前の国が邪馬台国時代には超大国だった事が明確に分かります。

 魏志倭人伝に記されている「七萬餘戸」もの超大国。その存在が可能な場所は、北陸地方の越前の国で間違いありません。

 いかがでしたか?

魏志倭人伝の邪馬台国への行路と一致した越前の国。「七萬餘戸」というもう一つのヒントとも完全に合致していますね?

これだけの農業生産力が弥生時代にあった地域は、日本列島全域を見ても、他に見当たりません。

ただし、いかに倭人伝に合致しているからと言って、実際に証拠となる現物がなければ話になりません。次回は、越前の国が邪馬台国である証拠を、考古学的な視点、すなわち弥生時代の出土品から検証してみます。