邪馬台国への行路。帯方郡⇒末蘆国

 邪馬台国チャンネルへ、ようこそ。

古代史最大のミステリー、邪馬台国の場所はどこにあったのでしょうか?

江戸時代の新井白石以来、300年に渡って論争が繰り広げられて来ましたが、未だにその謎は解明されていません。

論争の基本中の基本、邪馬台国へのルートについては、様々な曲解がなされ、複雑怪奇な説も飛び出しているのが現状です。

 そこで、原点に返って、基本に忠実に邪馬台国までの行路を辿ってみます。まずは、日本列島に上陸するまでの行路の検証です。

 では、魏志倭人伝に記されている内容を、最初から正確に読んで行きましょう。

「倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國」

倭人は帯方東南、大海の中に在り。山島に依り国邑(こくゆう)を為す。旧百余国。漢の時代、朝見する者有り。今、使訳通ずる所は三十国。

 という文章から始まります。

魏の植民地だった「朝鮮半島の帯方郡(現在のソウル市近郊)から東南方向の海の中にあって、山や島から国を形成している。」というのは、日本列島の位置的にも地形的にも正確な表現ですね。

 また、「漢の時代に朝見した者がいた。」とありますが、これは、中国・魏の時代よりも200年前の漢の時代に、倭国から朝貢して、その下賜品として金印を賜った事を指しているのかも知れませんね? 博多湾の志賀島から出土した「漢委奴国王」という金印がそれを物語っているように思えます。

從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里

「郡より倭に至るには。海岸に循(したが)いて水行し。韓国を歴て。乍南乍東(さなんさとう)。その北岸、狗邪韓国に到る。七千余里。」

次に、帯方郡から倭国へ行くには、海岸に沿って南へ行ったり東へ行ったりしながら、倭国の北岸の狗邪韓国に至る。となっています。これも正確な表現ですね。狗邪韓国は現在の釜山市の場所で、七世紀頃までは任那日本府が置かれておりましたので、日本の一部だった地域です。倭国の北岸だという表現も的を得ています。

しかし距離については疑問が残ります。七千余里という数字に辻褄が合わないのですが、これは追って検証する事にします。

始度一海 千餘里 至對海國 其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶㠀 方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有

 無良田食海物自活 乗船南北市糴

「始めて一海を度る。千余里。対海国に至る。その大官は卑狗と曰い、副は卑奴母離と曰う。居する所は絶島、方四百余里ばかり。土地は山険しく深林多し。道路は禽鹿の径の如し。千余戸有り。良田無く、海物を食し自活す。船に乗り、南北に市糴す。」

 狗邪韓国から海を渡り始めて1000里ほどで対海国に至ります。対馬の事ですね。官が卑狗 副官が卑奴母離という人物です。

対海国の様子については、山は険しくて獣道しかなく、良い田圃が無くて海産物を食べている様子が描かれています。実際対馬は、300メートル級の山々が連なり、平地がほとんど無い島です。海の幸しかなくて、北の朝鮮半島や南の九州へ食料調達していたのでしょう。食糧事情が悪くて、家の数が千戸ほどしかなかったというのも頷けます。なおここでも距離の問題が残ります。それは、方可四百餘里という対馬の長さとみられる記述です。これもあとでまとめて考察する事にします。

又南渡一海 千餘里 名日瀚海 至一大國 官亦日卑狗 副日卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴

「又、南、一海を渡る。千余里。名は瀚海と曰う。一大国に至る。官は亦た卑狗と曰い、副は卑奴母離と曰う。方三百里ばかり。竹木叢林多し。三千ばかりの家有り。やや田地有り。田を耕すも、なお食するに足らず。亦、南北に市糴す。」

 さらに海を渡り、一大國に至ります。壱岐の事ですね。官が卑狗 副官が卑奴母離で、対海国と同じ人物です。竹木が生い茂っているという描写がありますが、対海国ほどではなく、田圃の土地があります。実際に壱岐は、100メートル程度の低い山地しかなく、水田に出来る平地も存在しています。対馬に比べて四分の一ほどの面積しかありませんが、人が居住するには優れた場所です。戸数も対馬が千戸に対して、壱岐は三千戸となっていますが、理に適う数字です。

 実際に見つかっている弥生遺跡を比較してみても、対馬には目ぼしいものが無いのに対して、壱岐には大規模集落跡や製鉄所跡などの顕著なものがありますので、魏志倭人伝の描写はかなり正確だと思えます。

一方で、方可三百里という壱岐の長さと見られる数字には疑問が残ります。また、対海国から一大國への方角が「南」となっていますが、実際には「南東」方向です。

又渡一海 千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆沉没取之

「又、一海を渡る。千余里。末盧国に至る。四千余戸有り。山海に浜して居す。草木茂盛し、行くに前人を見ず。魚鰒を捕るを好み、水、深浅無く、皆、沈没してこれを取る。」

 壱岐からまた海を一千里渡ると、末蘆国に至ります。ここが九州島の最初の上陸地点です。方角が記されていませんが、これまでの狗邪韓国から対海国・一千里、対海国から一大國・一千里、と同じ一千里ですので、現在の佐賀県伊万里市辺りが末蘆国と考えられます。またこの地域は江戸時代までは松浦郡と呼ばれていました。

 なお末蘆国の候補地には、唐津や宗像など、様々な説がありますが、とりあえずここでは伊万里としておきます。この根拠は距離的な事だけではなく、理に適う様々な理由がありますので、末蘆国の様子も含めて次回の動画にて詳細を説明する事にします。

 さて、ここまでで朝鮮半島の帯方郡から、九州島の最初の上陸地点・末蘆国まで、大きな矛盾もなく、すんなりとやって来れました。矛盾を強いて上げるとすれば、距離的な問題です。

 帯方郡から狗邪韓国までは、七千里とあり、現在の距離で7000キロほどです。つまり、一里が100メートルです。一方で、狗邪韓国から対海国、対海国から一大國、一大國から末蘆国までは、それぞれ千里とありますが、現在の距離では50キロほどです。つまり一里が50メートルです。

 一里の長さがどの程度だったのか? 疑問が残ります。

また、対海国の大きさが「方可四百餘里」、一大國の大きさが「方可三百里」、となっていますが、これも矛盾があります。対馬と壱岐の長さの比は、4:1ですので、実際とは一致していません。

 これらの事から、当時の中国の測量技術は稚拙だったと推測されます。まあ、1800年前の技術ですので、仕方ありませんね。

 なお、「古代中国の技術は、想像以上に進んでいた」と唱える歴史作家も多いのですが、これは何の根拠もありません。実際に中国が正確な地図を作れるようになったのは、ほんの百年前の事ですので、当時の測量技術が想像以上に進んでいた訳がありません。1800年前の技術にファンタジーを求めたい気持ちは分かりますが。

 いかがでしたか?

今回は、帯方郡から九州島の最初の上陸地点・末蘆国までを、魏志倭人伝に従って辿ってみました。距離的な矛盾はあるものの、ある程度、理に適う行程が描けるでしょう。

問題は、ここから先です。九州島の上陸地点はどこだったか? さらにその先の伊都国は? 奴国は? 不彌國は? 投馬国は? そして邪馬台国は?

 これまで様々な曲解がなされ、いろいろな場所が候補地に挙がっています。

次回は、九州島の最初の上陸地点・末蘆国の場所を、比定して行きます。