倭人の髪型・服装 絹も生産

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魏志倭人伝を正確に読んで行くと、弥生時代末期の日本列島の様子が、手に取るように分かります。

風俗習慣の記述には、最初に、倭人たちが全身に文身を施して、海産物の狩猟を行っている様子が書かれていました。

今回、さらに読み進めると、倭人たちの髪型や服装、そして衣服に用いる材料に関する内容までも記されています。

高級繊維・絹の生産もあったようですが、残念ながら品質はとても低いものでした。

 魏志倭人伝の構成は、「女王國の構成や位置関係」、「倭国の風俗習慣」、および「女王國の政治や外交」という三つの章に分けられます。

 これまでに、「女王國の構成や位置関係」から、邪馬台国までの行路や、21ヶ国の小国群の名称、敵国である狗奴国の場所、などが記されている事を示しました。

 この地図のようになります。

 前回からは、「倭国の風俗習慣」に入りました。

まず、倭人たちが全身に文身を施して、海産物の狩猟を行っている、という描写がなされていました。これは、中国の長江下流域と同じ習慣で、まさにそこから東方向に倭国が位置している。という誤った描写がなされていました。

 魏の使者たちは、女王・卑弥呼によって方向感覚が狂わされて、北に九州島があり、本州は南に伸びていた、と認識していたようです。

 これによって、倭国イコール南の国、という固定観念が出来上がっていたので、この先の記述にも随所に「南の島」と考えられる描写がなされています。

 文身に関する記述の次は、倭人たちの髪型や服装について書かれています。まず、

其風俗不淫

「その風俗は淫ならず。」

 となっています。

倭人の風俗は淫らではない、との事です。

身なりがちゃんとしているだけでなく、行動の面でも規律正しい様子があとの記述にも見られます。現代の日本人にも通じる姿が、邪馬台国時代には既に存在していたという事ですね?

 なお三国志の東夷伝の中には、倭人伝だけでなく、高句麗伝や挹婁(ゆうろう)伝などの北東地域の人々の風俗習慣についても書かれています。現代の韓国・朝鮮人の先祖が元々いた地域なのですが、その内容は酷いものです。とても淫らな風俗習慣が記されているのです。1800年前と現代。何も変わっていないという事ですね?

 男性の身なりについては、

男子皆露紒 以木緜招頭

「男子は、皆、露紒(ろかい)し、木綿を以って頭を招(しば)る。」

頭は結った髪を露出していて、木綿で頭を縛り付けている。となっています。ちょんまげのように髪を束ねて、ハチマキをしているような髪型なのでしょう。

 着ているものについては、

其衣横幅 但結束相連略無縫

「その衣は横幅、ただ結束して相連ね、ほぼ縫うこと無し。」

衣は横幅が有り、ただ結び付けてつなげているだけで、ほとんど縫っていない。となっています。一枚の布を縫うことなく、体に巻き付けるように着ていたようです。古代ギリシャ人の服装のようなものですね?

 弥生時代の倭人の男性は、こんな感じでしょうか?

 次に、女性の身なりについての記述があります。

婦人被髪屈紒 作衣如單被 穿其中央貫頭衣之

「婦人は被髪屈紒(くつかい)す。衣を作ること単被の如し。その中央を穿(うが)ち、頭を貫きてこれを衣る。」

とあります。

 前髪を垂らしておでこを覆い、折り曲げて結っている。という意味ですので、現代のポニーテールのような髪型でしょうか? 先進的ですね? また服装は、上敷きのような衣をつくり、その中央に穴をあけ、そこに頭を入れて着ている。となっていますので、四角い袋上のものに穴をあけて、頭をポッコリ出していました。

 弥生時代の女性は、こんな感じでしょうか?

 これらのように、弥生時代末期の倭人の身なりは、極めてシンプルです。日本人の民族衣装である和服を着るようになったのは、邪馬台国の時代よりも400年以上あとの、飛鳥時代や奈良時代からですので、まだまだ先の話です。

 次に、農業や衣服の材料になる作物に関する記述になります。

種禾稻紵麻 蠶桑 緝績 出細紵 縑 緜

「禾稲(かとう)、紵麻(カラムシアサ)を種(う)え。蚕桑(サンソウ)す。緝績(シュウセキ)して、細紵( さいちょ )、縑(カトリ)、緜(メン)を出す。

 食料となる稲の類の作物や、衣類の材料になるカラムシやアサ、さらには養蚕を行っていました。これらを紡いで、麻布や絹、木綿を作っていたようです。

 倭国におけるこの時代の衣類は、カラムシ布や麻布が主流でしたが、絹や木綿の製造も行われていました。

この中で、蚕を飼い、紡いで絹を生産していたというのは重要です。絹は高級品ですので、この時代にすでに日本国内で生産されていた事になります。

 しかし残念ながら、品質は酷かったようです。

 日本列島で絹の生産が始まったのは、出土品から紀元前三世紀頃とされています。

これは、青銅器や鉄器が伝来した時期や、水田稲作や弥生土器が日本列島全域に伝播した時期と同じです。

普通に考えれば、絹も日本列島全域に伝播してもおかしくありません。ところが全く広がりを見せませんでした。弥生時代の出土品があるのは北部九州だけで、現在のところ他の地域からの出土はありません。

 これは、北部九州で生産された絹の品質が、ひどく悪かったという事です。

絹を生産するには、桑の木を育てて、蚕を飼って、糸を紡いで、布にするという膨大な手間が掛かります。ところが完成品の質が悪ければ、誰も作ろうとは思わないですよね?

 魏の使者たちは、伊都國(現在の福岡県糸島市)に逗留して、そこに住む倭人の様子を記したので、絹の生産が行われている事も記したのでしょうが、女王國全域の事ではありません。もちろん、女王の都・邪馬台国でも絹の生産は行われていませんでした。

 魏志倭人伝の後半部分では、女王國が魏の皇帝に、僅かばかりの絹織物を朝貢する下りがあります。

これに対して魏の皇帝からは、金銀を散りばめた絢爛豪華な織物類が下賜されています。もちろん、最高級の絹織物を用いたものでした。

 とても粗末な絹織物を献上した倭人たちは、赤っ恥をかかされて、とても恥ずかしい思いをしたに違いありません。

 いかがでしたか?

九州説論者の多くは、絹の出土が北部九州からだけだと、得意げに主張します。それはそれで結構な事ですが、邪馬台国の場所とは全く結びつきませんね? なぜ北部九州からだけしか絹が出土しないのか? という根本的なところを考察しなければなりませんね? 魏志倭人伝の風俗習慣の中には、様々な産品の記述がありますが、邪馬台国を特定したものは、一つもありません。

 伊都国(現在の福岡県糸島市)で逗留していた魏の使者が書いたものだと、まずは学習すると良いでしょう。