牛も馬もいない = 九州説は消える

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魏志倭人伝を読み進めて行くと、弥生時代末期の日本列島の風俗習慣が、手に取るように分かります。

倭人たちは全身に文身を施して海産物の狩猟を行ったり、髪型や服装の描写や衣服に用いる素材の生産に関する記述がありました。今回は、当時の倭国には牛も馬もいなかった、との記述です。これは、邪馬台国の場所を確定する上で、とても重要です。なぜならば、食料の基本である米が、どこで作られていたか? という疑問に対する答えだからです。

 魏志倭人伝の内容は、大きく三つに分けられます。「女王國の構成や位置関係」、「倭国の風俗習慣」、および「女王國の政治や外交」です。

 女王國の構成については次のようになります。

朝鮮半島の帯方郡から九州島に上陸。日本海を東に進んで邪馬台国に至ります。ここが女王の都です。

 女王國は30もの国々から構成される連合国家です。この境界線は、博多湾沿岸地域の奴国と記されています。帯方郡からの距離は12000里となっており、奴国までの距離と一致しています。

 一方、女王國の敵国として狗奴国の存在も記されていました。これは、現在の近畿地方を指しています。

 風俗習慣については、これまで、倭人たちが全身に文身を施して海産物を狩猟している様子や、髪型・服装の描写、衣服に用いる素材の生産などに関する記述がありました。

 なお、九州島の上陸地点から邪馬台国までの行路では、方角がすべて90度のズレがありましたが、これは魏の使者たちが、日本列島は90度ズレた形だと認識させられたようです。それを裏付けるように、風俗習慣の内容でも南の島であるという内容になっています。

計其道里 當在會稽東治之東

「その道里を計るに、まさに会稽東冶の東に在るべし。」

となっていましたが、倭国の場所が長江下流域のすぐ東、すなわち南の島であるとされていました。

 今回、風俗習慣のさらにその先を読み進めます。

其地無牛馬虎豹羊鵲

「その地には牛、馬、虎、豹、羊、鵲(かささぎ)、無し。」

とあります。

 虎や豹は猛獣ですし、現代でも日本列島に存在しませんし、鵲(かささぎ)は農作物を荒らす害鳥ですので、居ないに越した事はありません。

 この中で役に立つ動物は、牛、馬、羊です。中でも、牛と馬が日本列島にいなかったというのは重要です。これらは、開拓開墾をする上での強力な動力になるからです。現代で例えるならば、土木工事を行うのに重機があるかないか、という事と同じ意味を持っています。もし牛や馬がいたならば、人工的な農地が大いに広がったと見て間違いありませんが、いなかった、との事ですので、当時の農業の様子が手に取るように見えてきます。

 古代の日本列島の様子を想像してみましょう。海岸線は湿地帯、平野部は木々が生い茂り、簡単に水田稲作農業を行えるような状態ではありませんでした。縄文時代までは、それでも良かった。食料調達は、狩猟や焼畑農業によって賄われていたからです。しかし人口扶養力は非常に弱く、日本列島全域でもせいぜい五万人程度の人口しかありませんでした。

 これでは邪馬台国のような古代国家が成立する術はありませんね?

しかし水田稲作が伝来し日本列島全域に伝播してから、すなわち弥生時代になってからは、事情が異なってきます。

水稲という人口扶養力がとても高い穀物は、人口爆発を引き起こし、一極集中型の超大国の出現をもたらしたからです。

これが、「七万余戸」という当時としては最大の人口を持つ都・邪馬台国なのです。

 その当時に、牛も馬もいなかったという事は、人工的に水田を作るのは、ほぼ不可能だったという事です。

木々を伐採し、根を掘り起こし、水平に整地し、畔を立て、灌漑を整備する。人間の力だけで行うには、想像を絶する作業になります。もちろん、局所的には小さな水田を人力だけで作る事も可能だったでしょうが、広域的に水田地帯へと開拓開墾を行うのは不可能です。

 また、人海戦術で大量の人手を動員して開拓開墾を行った、とする説もあります。しかしこれは机上の空論ですね? そもそも大量の人手を動員するには、大量の農業生産が必要です。食料の少なかった縄文時代から弥生時代に掛けては人口が少ないので、人海戦術自体が不可能な話なのです。

 では、邪馬台国時代の水田稲作は、どういう場所で行われていたのでしょうか?

それは、天然の水田適地です。開拓開墾をする必要のない、自然の状態で水田稲作が行えた場所です。具体的には、沿岸部の湿地帯だった場所で水が干上がった土地や、淡水湖の水が干上がった土地です。これらは、雑木林へと変貌する前なので、大がかりな開墾作業は必要ではありません。しかも、べったりと平坦な上に、泥状の土なので水はけが悪く、水田稲作を行うには最高の土地です。

 この具体的な成り立ちについては、また別の機会に紹介するとします。

 今回は北部九州を例にとって、この地域に水田適地が少なかった事。そして、七万余戸もの超大国である邪馬台国には決して成り得なかった事を示します。

 まず邪馬台国比定地としてしばしばテーブルに載る筑紫平野を見てみましょう。ここには、山門、八女、久留米、そして吉野ケ里遺跡があります。

 この地域は弥生時代にはほとんどが湿地帯や海の底でした。海岸線はこれらの地域を結ぶ線上にありました。そのために、水田適地は海岸線部分だけの僅かな土地しかありませんでした。

 一方、筑紫平野を流れる筑後川水系の中流域には、甘木朝倉地域があります。ここも、邪馬台国だと唱える研究者がいます。この地域は、水田稲作が始まるずっと前に陸地になってしまったので、雑木林や密林地帯となってしまいました。しかも扇状地にみられるような粒子の大きい土質なので水はけが良い為に、水田稲作には適していません。その時代に水稲栽培が行われていたとすれば、平塚川添遺跡に見られる、谷底低地や三日月湖跡地のような限られた土地だけです。

 また、博多湾沿岸地域にも多くの弥生遺跡が見つかっていますが、これらも平塚川添遺跡と同じです。この地域もまた扇状地形なので水田稲作には不適合な場所です。

 なお、日本最古級の水田遺構である板付遺跡もこの地域ですが、これもまた谷底低地という局所的なものです。

 北部九州は、日本列島の長い歴史の中で、邪馬台国に限らず一度たりとも日本の中心となった事はありません。朝鮮半島に最も近く、大陸文明がすぐに入って来る場所だったのに、不思議ですね?

 この理由は取りも直さず、農業生産力が非常に弱かった事に尽きます。

 開拓開墾には、鉄器のような農具があれば良い、というものではありません。僅かばかりの鉄器を使ったところで、人力だけでは焼け石に水です。

 魏志倭人伝に記されている、牛も馬もいなかったという記述は、人工的に水田を作るのは、不可能だったという事です。この時点で、水田適地の少ない九州に邪馬台国があった可能性は無くなります。

 これらの内容を数値で示す事ができます。江戸時代の石高推移からの、農業生産高の推測です。

ここでは、筑後の国と筑前の国を例にとります。

これらの国々は、元々石高は少なく、江戸時代末期でさえも50万石~60万石しかありません。、しかし、牛や馬がいた時代ですので、この260年間に大きく伸びていた事が分かりますね?

 では、邪馬台国時代はどうだったのでしょうか?

このように、どちらの国も邪馬台国時代には、残念ながら農業生産が無かった事になってしまいます。

 一方で、魏志倭人伝の行路を正確に辿って見つかった場所は、天然の水田適地でした。狭い面積ながらも江戸時代を通してこのように大きな石高があり、高止まりしていました。古代からずっと水田として利用されていた土地ですので、江戸時代にはもはや新たに開拓開墾する場所が無かったという事です。では、邪馬台国の時代はどうだったのでしょうか?

このように64万石、すなわち64万人もの人口扶養力があった事になります。

 この天然の水田適地は、北陸地方・越前の国、福井平野です。ここが邪馬台国でした。

 いかがでしたか?

もし、邪馬台国の時代に牛や馬がいたならば、状況は大いに変わっていたでしょう。水田適地の少ない北部九州でさえも、開拓開墾によって広大な水田地帯となり、農業生産が格段に上がり、人口爆発が起こり、日本の中心地になっていた事でしょう。「国の基は農業なり」。まさに農業こそが古代国家出現の基本です。残念ながら北部九州は、この基本中の基本を満たしていません。九州は弥生遺跡が多い事から勘違いされやすいのですが、ここはあくまでも中継貿易地のような場所なのです。